社会批評としての和歌2024年04月14日 13:15

大倉山公園は梅林で有名ですが、その周辺には少しだけ桜も植えられています。先週、久しぶりに登ってみたら、ソメイヨシノは既に葉桜となり、オオシマザクラがピークを過ぎた咲き具合でした。
 今年の年明けぐらいから、時々日本語教室で和歌を紹介していますが、この時期はやはり桜を詠んだ歌が最適なので、三首ばかり選んで担当の学習者に紹介しています。その中の一首。紀貫之の「さくら花 散りぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞたちける」は稀代の名手らしい“見立て”の妙に溢れています。
 本歌取りという言葉遊びそのものが一種の見立てとも言えるのでしょうが、そうした伝統は、この国で批評的な文化を豊かに育んできました。和歌はもちろん、短歌・俳句を始めとして短詩型の狂歌や端唄・川柳、そして唖蝉坊の演歌にもたくさんあります。そういえば、“サクラ”は言い得て妙な言葉です。
 批評は必ずしも歌ばかりではなく、新聞漫画に代表されるイラスト風の風刺画もあります。社会現象を庶民が理解し考える上での、とても重要な情報源でした。1970年代の「櫻画報」は後の「大全」で知りましたが、「ブラックアングル」の衝撃はリアルタイムで経験しています。
 そうした批評文化が今急速に失われています。その代わりに世間を席巻しているのは、政治家から企業人・学者・“コメンテーター”までが使う“詭弁”です。あの『広告批評』が続いていたら繰り返し特集を組むぐらい、今の世の中で枚挙にいとまがありません。そうした言葉の“あいまいさ”を遊びとして身につけていた江戸庶民の知恵にはるかに及ばない無教養が拡がっています。
 この流れを押しとどめることは、もう難しいでしょう。様々な場面で私利私欲だけの為政者による上意下達が、そのまま受忍されるだけの社会が到来しました。新聞に溢れる“・・・するおそれ”という見出しが、その事実を物語っているようです。
 桜のように、散った後から再び花を咲かせることができるのかどうか。昨日、年来の友人である元留学生と話しながら、日本語を学ぼうとする外国人にそれこそを伝えたいと思った次第です。

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