身体を預ける“語り”2021年06月08日 11:53

直前になって思い直し、急いでチケットを申し込んだのが開演30分前ぐらいだった。代官山の「晴れ豆」で開かれたトークイベントにオンラインで参加した。『語る騙るカタルシス!』と題した能楽師安田登さんと浪曲師玉川奈々福さんの話と口演である。
 お二人揃っての声を聴くのは『能でよむ』以来1年半ぶりのことだが、いつものように引き込まれつつ、膨大なメモを残しながら繰り返し肯かされること多い対談だった。この間にお二方がそれぞれ書いて出された著作が、私の目の前にもあるが、何より直接声を聴いていないことへの後ろめたさなのか、手を付けられずに、別の小説や物語ばかり追って過ごしてきた。
 それでも、“語り”が生み出すグルーブに身体を預けた経験は、外国人の日本語学習支援で音読による“拍”を意識することに今もつながっている。
 対談の話題は語りにつながりつつ縦横無尽に拡がっていく。聖書を詠むユダヤ人のように、日本人は“語り”をどのように伝えてゆくのか。習合文化における敗者への鎮魂の形は新たな芸能を生んだが、そのいずれもが“あはひ”の時代に産声を上げている。同時に諸処に記憶される“残念”は、形は違えど負けた人々を悼む歌として残り、様々に“語り”となって伝えられた。
 やせ我慢が無くなり、“変わった人”がいなくなり、玄関先で小銭を渡すお乞食さんも消えた。そして「優しさ」が失われた。ホームレスは見えない人、社会から異質なものが締め出される。他人への関心が無くなれば、上下(かみしも)を演じ分ける落語の所作もわからなくなる。
 道行きの中に現れる土地の言葉にも、重層的な構造を持つ日本の伝統芸能の特徴が現れる。そして受け取ったものを想像力で再構築できる力がある限りこの国はまだ強い。外国でも通用する芸は多くの旅によって培われてきた。それは、持ち、待って、詩になったものである。だから、時空を創り出すことができる。
 きりがないので、この辺りで終わりにするが、口演も見事なものであった。『藤戸』が選ばれたのは、おそらく、今、この時に理不尽な死を迎える人がいることと繋がっているのだろう。奈々福さんの現代語の語りから始めたのは、それを強く意識しているように聞こえた。

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