生きづらさの正体は(続) ― 2019年09月17日 17:28
“生きづらさ”について、私は若い頃から自分自身の個人的性格ゆえに感じることが多いのではないかと考えてきた。子供の頃から一人遊びが好きで、集団の中で浮いた存在となることに忌避感を感じない。教師とも度々意見が合わなかったし、グループワークもあまり好きではなかった。先輩や上司からも「そう言うのは君だけだ!」と繰り返し諭された。高校を卒業して就職したので、社会勉強をもっぱら一人での映画鑑賞に頼ったせいかもしれない。だから、贅沢しなければ暮らしを心配しないで済む準備を済ませ、他人(ひと)より少しだけ早く退職して活計(たつき)のしがらみを切ったとき、大きな解放感を得られると思っていた。
ところが、この6年間、澱のように溜まっていった違和感は、同質性を重んじて、孤立に弱く、同調圧力が強いこの社会の有りようそのものに対してだった。
その一つが権威主義である。具体的な世俗の権力があるかどうかに関係なく、自分以外の何ものかに依って発言・行動する人間がいかに多いかを目の当たりに見てきた。SNSによる情報発信手段の発達と、ネットワーク上に拡がりつつ実は“限定的”な同意の共有と拡散が、現代人が嗜好する新しい権威主義を担保している。そして、自らに具体的な責任が問われるまで思考停止は続く。相模原の大量殺人事件の犯人が、自らの行動の追認を現政権に求めたことは記憶に新しい。
SNS上の多くの“匿名”投稿者が、不都合なことから眼を背け、“限定的”な権威に倣って歴史的事実の改竄を手伝う。彼らの多くは世俗の権力が保証してくれるであろうという条件で動き出す。その具体的な行動も延長線上にある。だから、海外の報道機関が指摘するように、この国におけるヘイトデモが警察によって守られているのは実に象徴的だ。本来それらを検証すべき報道も、“一方の意見”として無秩序・無批判に取り上げるようになった。そして、エビデンスさえ出さなければ、瞬間的に何でも言うことができて、炎上すれば「誤解」だという子供の言い訳が通用する。いや、そうした言葉さえ「コメントは控える」に置き換わっている。マスコミも“権威の広報”に変わり果て、今やディストピア小説をなぞっているようにさえみえる。
生活そのものの苦しさや、一朝事あれば棄民とされる現今の政治に起因するところは多々あるものの、それ以上に、“まっとう”な物言いが公の場でできなくなりつつある閉塞的な社会の到来にこそ、“生きづらさ”の根を感じている。そして、おののく。
ところが、この6年間、澱のように溜まっていった違和感は、同質性を重んじて、孤立に弱く、同調圧力が強いこの社会の有りようそのものに対してだった。
その一つが権威主義である。具体的な世俗の権力があるかどうかに関係なく、自分以外の何ものかに依って発言・行動する人間がいかに多いかを目の当たりに見てきた。SNSによる情報発信手段の発達と、ネットワーク上に拡がりつつ実は“限定的”な同意の共有と拡散が、現代人が嗜好する新しい権威主義を担保している。そして、自らに具体的な責任が問われるまで思考停止は続く。相模原の大量殺人事件の犯人が、自らの行動の追認を現政権に求めたことは記憶に新しい。
SNS上の多くの“匿名”投稿者が、不都合なことから眼を背け、“限定的”な権威に倣って歴史的事実の改竄を手伝う。彼らの多くは世俗の権力が保証してくれるであろうという条件で動き出す。その具体的な行動も延長線上にある。だから、海外の報道機関が指摘するように、この国におけるヘイトデモが警察によって守られているのは実に象徴的だ。本来それらを検証すべき報道も、“一方の意見”として無秩序・無批判に取り上げるようになった。そして、エビデンスさえ出さなければ、瞬間的に何でも言うことができて、炎上すれば「誤解」だという子供の言い訳が通用する。いや、そうした言葉さえ「コメントは控える」に置き換わっている。マスコミも“権威の広報”に変わり果て、今やディストピア小説をなぞっているようにさえみえる。
生活そのものの苦しさや、一朝事あれば棄民とされる現今の政治に起因するところは多々あるものの、それ以上に、“まっとう”な物言いが公の場でできなくなりつつある閉塞的な社会の到来にこそ、“生きづらさ”の根を感じている。そして、おののく。