たまには別の淹れかたを2016年07月05日 22:55


 過日、二子玉川でコーヒーワークショップに参加した。スルガ銀行のd-laboというイベントスペースで行う無料の講座の一つだ。

 普段コーヒーは、TERA COFFEEの豆をその都度ミルで挽き、コーノの円錐ドリッパーを使ってハンドドリップで作っている。暑くなって、最近はもっぱら落とした直後に氷で急冷する。メリタ製の古いアイスコーヒーメーカーの、コーヒーを氷で冷やす部分だけを使う。紙のフィルターなので抽出の仕方で味も微妙に変わるが、暑い中、手間を考えるとこの方法が一番簡単だからでもある。特に、最近はあちらこちらで知人とシェアするために、購入した専用のボトルに入る量を作ることが一種機械的な作業になっていた。

 それで、自分だけで楽しむための手段として、たまにはフレンチプレスで飲んでみようと考えたのが、前述のワークショップに参加した理由だ。

 講師は丸山珈琲でセミナー講師を務める櫛浜バリスタ。フレンチプレス以外にハリオV60でのハンドドリップの実演もあったが、やはり本命はフレンチプレス。粉っぽいコーヒーを人とシェアするのはためらうところもあるが、自分一人で飲む時にはバリエーションが欲しい。それで、ここで聞いた通りに量・湯温・抽出方法・時間などを正確に計りながら久しぶりにフレンチプレスで淹れた。

 美味しかった。油分が十分に出たコーヒーを飲むのにすっかり無沙汰していたこともあって、熱い一杯が身体に染み通るような感覚があった。あぁ、これもいいなという感じだ。

 何事も自由に選択できるとことが、単なる消費にとどまるのではなく、ものを作るバリエーションであることに豊かな感慨を覚えた。問題があるとすれば、17gという中途半端な豆の量を20gに変えて作る工夫をこれから考えなければということぐらいだろうか。

パンソリから浪曲へ2016年07月07日 18:58


 幼い頃に通っていた丘の上の幼稚園はその土地の主である天満宮が経営していた。天神様と言えば梅が付きもので神社の裏には小さな梅林があった。そのせいか、丘の上に梅林がある大倉山に今住んでいるのは、何かしら“ご縁”があったのではないかと思っている。その“梅つながり”かどうかは分からないが、先日天神様で知られる東京・亀戸へ足を延ばした。江戸時代の梅屋敷の跡もあるこの地を訪ねるのは初めてのことだ。

 駅前のロータリーの一画に亀戸文化センターという公共施設がある。大きなホールもあるが、私が入ったのは畳敷きの和室だ。60名限定で行われた室内公演は「おおそれみよ!愚か者は国境を越える」という副題の、パンソリと浪曲による舞台である。二つの芸能は放浪の語り芸としてとても良く似ているが、同じ舞台で連続して演じられることは少ないだろう。私も他に例を知らない。

 この奇妙な催しが始まったのは2012年、最初に演じた会場が新潟の水揚場で、海風に吹かれながらの熱唱だったそうだ。その時以来「かもめ組」と名付けたグループで公演を続けているのは、作家の姜信子、浪曲の玉川奈々福、パンソリの安聖民の三人。毎回、姜さんが道案内役で進行を行う。前半がパンソリ「沈清歌」の「沈学奎、都に向かう」という盲目のダメ親父(?)の話なら、後半の浪曲は山田洋次原作・奈々福作の「放蕩一代息子」という稀代のダメ息子(?)の話だった。片や、娘を無くした父親が後妻に振り回され旅行く先々で大変な目に遭えば、一方で、廓通いにうつつを抜かし遊びまくった果てに不思議な因縁で最後を迎える息子がいる。

 社会の隙間からはみ出して生きている「愚か者は国境を越え」ていつの世にもいるけれど、それを辛抱強く見守るような目がどこかにあったことを二つの話は伝えているような気がする。そして、必ずしもハッピーエンドにはならなくても、それが“業”を超えて生き続ける人間という生き物のありのままの姿かもしれないように感じた。

 時の権力とは一線を画し、時にはそれを揶揄し、大樹に寄らず巷の人々の“思うところ”を飾らず表現する。放浪先の大道で聴く人の投げ銭を頼りに細々と繋いできた芸能の末裔であることに誇りを持っているという言葉が、幕間の鼎談で出た。そして、文字で書かれた揺るがすことのできない物語が、“語り”によって土地ごとに異なった物語を生み出したという「山椒大夫」の話もあった。

 今、往来で聞こえてくる大きな声の中に、生きる力になるような物語を見つけることは難しいかもしれないが、辛抱強く自分の“物語”を紡ぎ出すことで、問答無用の声に抗うような“業”を見つけることができるのではないかと考えている。たとえば、それは「べらんめぇ」から始まったとしてもおかしくはないだろう。

思惟像は何を考えている?2016年07月08日 16:59


 亀戸で公演を聴いた日の後日談、いや後刻談になるが、総武線で秋葉原へ出て山手線に乗り換え上野へ出た。実は先日あるイベントに参加した際に、東京国立博物館で開催中の「ほほえみの御仏 二つの半跏思惟像」特別展のチケットをもらったからだ。上野往復の交通費を考えて展覧会だけに行くのを躊躇していたところもあったが、亀戸まで来て寄らないのはもったいないので、ついでに立ち寄ることにした。

 暑さのせいか日曜日の午後にしては人出が少ないように見える上野公園を抜けて博物館に入場したところ、本館内の会場も思いのほか空いていた。二つの思惟像は展示室の中に10mほど離して置かれた背の高いガラスケースに収められ相対している。その周りを観客がぐるっと取り囲んで観てはいるが、少し待てば前後左右の四面どこからでも間近に観ることができる程度の混み具合だった。

 韓国の思惟像は冠をかぶった金銅製の小柄な仏像だ。それに対し、日本の思惟像は二つの丸髷に光背を背負った木製の大柄な仏像である。元々はほとんど同型の韓国の国宝83号と広隆寺所蔵思惟像の展示が構想されていたと聞いたが、こうして相対しているのを観ると、同じ半跏姿勢をとりながらもいろいろと違いがある二つを揃えたことが却って良かったように思う。

 しばらく眺めていて、その微妙な違いに気が向いた。韓国のそれは膝の上に組んだ足の裏が天を向いている。頬に当てた指先も強く、やや下向きの表情は思惟にふさわしい趣がある。対して、日本のそれは足の裏が後ろに向いており、あごの近くに添えた指は軽めで、やや瞑想に近い面差しだ。金銅と木という材質の違いが影響を及ぼしていることもあるのだろうが、一方で、それは作られた社会環境の差を表しているようにも見えた。

 話は変わるが、今回の展示を観ていて気がついたことがある。会場入口の挨拶文を読むと、韓国側はたしか国立中央博物館館長の個人名だったが、日本側はたんに主催者となっていた。もちろん無理に合わせる必要はないのだが、東京国立博物館側を代表する個人はいなかったのだろうか。日韓国交正常化50周年を記念する催しであるならなおのこと、主催者の中からこの展示会の意義や目的を自らの言葉として語る人が出てきて欲しかったと思う。

 また、特別展の会場として本館が使いやすいこともあるのだろうが、たとえば東洋館で開催することはできなかっただろうか。エジプトから西アジア・西域、そしてインド・ガンダーラ・中国まで、古代美術や仏教とのつながりを感じさせる展示物がここには目白押しだ。第10室には朝鮮半島の美術もまとめられており、そこには小さな菩薩半跏像まであるのだ。今回の国宝級の二つの思惟像が作られた歴史には、それ以前に同様の営為を続けてきた地球規模での人々の想いが連なっているはずなのだ。その連関を来場客に示してこそ学芸の本来の役割が果たせるというものではないのだろうか。素人の浅知恵かもしれないがとても残念である。

言葉が伝えることを伝えること2016年07月11日 00:11


 午前中に投票を済ませ、向かったのは本郷三丁目。東京大学の構内に入るのは久しぶりだ。偶然にも赤門でこの日のイベントに誘って下さった旧知の韓国人に会うことができて、つかの間、記念写真撮影のお手伝いをすることになった。

 来年が生誕百年となる詩人の詩と生涯を辿り、彼が今を生きる私たちに伝えてくれることを考えようという催しに参加した。尹東柱(ユンドンヂュ)は日本による植民地時代の満州東部、今は中国領となっている北間島(プッカンド)で生まれた。移民が切り開いた進取の精神に富む土地でキリスト教の影響を受けて育った尹東柱は詩を読みながら文学を志すが、彼の青年期は日本が植民地朝鮮へ様々な同化政策を押しつけた時期と重なる。

 英文学を専攻するため“平沼”と創氏して立教大学へ留学するも選科生の立場で受講、その後同様に同志社へ編入する。1941年に改定された治安維持法の“準備行為”に相当するものとして朝鮮語研究者の逮捕・獄死にも繋がった当時の「国語」常用に反するとみなされる活動は、帰省直前の尹東柱の詩作にも適用された。そして彼は、2年の実刑により収監された福岡刑務所で日本が敗戦する半年前に獄死する。

 その朝鮮語で書かれた詩は、キリスト者として思索する青年の叙情に溢れたものであり、政治的なメッセージとはほど遠い。しかし、その詩は摘発の対象となった。ひとつ言えることは、それが決して“まつろわぬ”ものであったということだ。時代に流されず、“個人”として自立しようと模索し、それを母語で書いたと言うことだ。

 想像してみよう。ある日を境に、たとえば“日本語”を使えば反体制の犯罪者だと認定されるということの意味を…。この国はそういう歴史を歩んできたことがある。その時も、唯々諾々と時の政権ににじり寄って伝えるべきことを伝えてこなかったもの等がいて、社会から豊かな言葉を奪ってきた。今またそれを繰り返すのだろうか。

 尹東柱の代表的作品「序詩」に「そして私に与えられた道を、歩いていかねば」(岩波文庫版・金時鐘訳から)という一節がある。その決意を刑務所の中でも持ち続けた彼の獄中の作品は闇に葬られてしまった。そこには、どのような言葉があっただろうか。もしかしたら、それは“個人”としてこれからの未来にかける祈りのようなものだったのではないかという気がしてならない。三四郎池のほとりを歩きながらそんなことを考えた。

 帰宅後、テレビは付けていないし、ネットニュースも見ていない。その代わりこの文章を書いた。

再び巻き込まれることがないように…2016年07月12日 01:04


 この数年、全体主義とそこに巻き込まれていった普通の人達のことが気になって、ずっと関心を持ち続けている。きっかけは「ハンナ・アーレント」だった。映画を観て、その後に新書を読み、アイヒマンという人間が他人事には思えなかった。


 「独裁体制のもとでの個人の責任」のなかで、アーレントは「公的な生活に参加し、命令に服従した」アイヒマンのような人びとに提起すべき問いは、「なぜ服従したのか」ではなく「なぜ支持したのか」という問いであると述べた。彼女によれば、一人前の大人が公的生活のなかで命令に「服従」するということは、組織や権威や法律を「支持」することである。「人間という地位に固有の尊厳と名誉」を取り戻すためには、この言葉の違いを考えなければならない。(中公新書「ハンナ・アーレント」201p)


 組織の中でともすれば過剰適応しようとする自分の弱さが私はとても怖いのだ。

 以後、「時代の正体」・「戦前回帰」・「片手の郵便配達人」・「1937」・映画「Spotlight」・「北朝鮮現代史」・映画「帰ってきたヒトラー」・「愛国と信仰の構造」など、吸い寄せられるように最初の関心に繋がると思われるものを追いかけてきた。


 このくには倖せになるどころか
 じぶんの不幸をさへ見失った。

 顔色ばかりみる癖がついても
 このくにの人をせめてはならない。

 一人の正しい判断があっても、
 このくにのものはおしながされて

 あたらしい歯車にまきこまれては、
 世界の砂利場にすてられるのだ。 (金子光晴「IL」より)


 1965年に詩人はこう書いた。そして、先日なくなった永さんも次のような言葉を残している。


 二〇〇四年。
 日本国憲法は、イラクへの自衛隊派遣によって立往生していた。
 憲法も日本語なら、その憲法の改正も、拡大解釈も日本語である。
 憲法の「武器を持たない」「戦争をしない」というじつに単純明快な原則が、じっさいには無力だった。
 憲法つまり日本語をどう理解し、どう曲解すれば、武器を持つ日本の軍隊が海外へ行っていいことになるのだろう?
 「なにがなんでも戦争にまきこまれないことを伝えていこう」
 脳梗塞でリハビリ中の野坂昭如(あきゆき)さんからの手紙にあった。
 「戦争は嫌でございます。親孝行ができませんし、なにしろ散らかしますから」
 新内(しんない)の岡本文弥(ぶんや)さんの言葉だ。
 戦争を「散らかす」という一言で表現する、こうした言葉こそ、伝えていかなければならない。
 その伝言である。
 三波春夫さんは言っていた。
 「人間はただ人を殺す気にはなりません。
 わたしの場合、戦場にいて、戦友が殺されたとき、その瞬間、鬼になります。
 平気で人が殺せます。
 そのことが、戦場体験のない人には理解できないですね」
 この体験が語り伝えられていない。
 文化の伝承というのは、しっかりした伝言があってのことだと思いつつ。(岩波新書「伝言」まえがき)


 自分自身の精神安定のためにこうした文章を書き連ねているような気がするが、やはり怖いのだろう。