定番への「はて?」が開く新しい芸能の夜明け ― 2024年12月10日 17:31

今年最後の寺参りに相応しい素晴らしい公演でした。台東区竜泉と言えば樋口一葉を思い浮かべますが、今回は入谷に近い西徳寺という真宗のお寺。聞法(もんぼう)と呼ばれる仏の教えを聴聞することもある本堂の椅子席で、玉川奈々福さんの“語り”を聴きました。この日の演目は、西徳寺で菩提を弔われている十八代中村勘三郎丈が襲名披露で演じた野田版歌舞伎『研辰(とぎたつ)の討たれ』を浪曲化したもので、十三回忌の法要を兼ねた「…を聞く会」としての開催です。
前読みもなく、開会早々に奈々福さんが出てきて、まずは「義士伝」と「忠臣蔵」の解説。江戸は元禄時代に起きた赤穂事件の概要と、その波紋から生まれた数多くの芝居や劇作を紹介し、日本人の精神形成にも大きな影響があったこの物語の普遍性を説明します。
ただ、昭和の時代であれば、年の暮れにはテレビ時代劇の定番と言われるほど大衆文化に定着した「忠臣蔵」も、今はすっかり影を潜めました。巷(ちまた)には「天野屋」のような義商どころか今日の儲けを最優先する“越後屋”が跋扈(ばっこ)しています。今では“義”や“忠”も少々危うい状況ですが、今回の主演目は、その人間的な本質につながる考え方そのものを問い直してみる作品なのです。
そこで、まずは最初に赤穂事件に関連して生まれたスピンオフの物語『赤垣源蔵・徳利の別れ』の一席が演じられ、休憩を挟んだ後半に“人間的な本質”を問う傑作『研辰の討たれ』があるという構成になっています。「とっくりのわかれ」と「とぎたつのうたれ」、見事な掛詞にもなっています。
『赤垣…』は講談から来た演目らしく、赤穂義士の討ち入り前と直後のエピソードを、兄弟を囲む人間関係の中に生き生きと描き出す語り物で、まさしく“義”や“忠”を象徴するものです。勘三郎丈の遺影も飾られる本堂の中央で、奈々福さんはいつもより少し緊張している様子がうかがえました。
『研辰…』の方は、シネマ歌舞伎として映像にも残されている作品で、歌舞伎らしく華やかで多人数が出てくるものなので、10人近い登場人物を描き分けるだけでも大変です。それ自体がとても挑戦的な演目なのですが、それに加え、浪曲という語りの象徴でもある“人情”や“義”に「はて?」を投げかける主人公の有り様への共感も得ようと考えれば、二重に困難な取り組みだったとも言えるでしょう。
豊子師匠を彷彿とさせる美舟さんの相三味線と二人のお囃子方にも支えられ、それを見事にこなす奈々福さんを、平成中村座で歌舞伎界に新風を巻き起こした勘三郎丈は、草葉の陰から心強く見守っていたことと思います。とても心に沁みました。
木村綿花から野田秀樹へと受け継がれてきたこの問題作には、今失われている真っ当な社会批評の数々が散りばめられていて、所々に現代の社会問題に通じる表象が現れます。それは、この演目に表れる表現が浪曲の新しい“ありよう”を開き始めていることにつながっているはずです。その取り組みに心からのエールを送りたいと思います。
前読みもなく、開会早々に奈々福さんが出てきて、まずは「義士伝」と「忠臣蔵」の解説。江戸は元禄時代に起きた赤穂事件の概要と、その波紋から生まれた数多くの芝居や劇作を紹介し、日本人の精神形成にも大きな影響があったこの物語の普遍性を説明します。
ただ、昭和の時代であれば、年の暮れにはテレビ時代劇の定番と言われるほど大衆文化に定着した「忠臣蔵」も、今はすっかり影を潜めました。巷(ちまた)には「天野屋」のような義商どころか今日の儲けを最優先する“越後屋”が跋扈(ばっこ)しています。今では“義”や“忠”も少々危うい状況ですが、今回の主演目は、その人間的な本質につながる考え方そのものを問い直してみる作品なのです。
そこで、まずは最初に赤穂事件に関連して生まれたスピンオフの物語『赤垣源蔵・徳利の別れ』の一席が演じられ、休憩を挟んだ後半に“人間的な本質”を問う傑作『研辰の討たれ』があるという構成になっています。「とっくりのわかれ」と「とぎたつのうたれ」、見事な掛詞にもなっています。
『赤垣…』は講談から来た演目らしく、赤穂義士の討ち入り前と直後のエピソードを、兄弟を囲む人間関係の中に生き生きと描き出す語り物で、まさしく“義”や“忠”を象徴するものです。勘三郎丈の遺影も飾られる本堂の中央で、奈々福さんはいつもより少し緊張している様子がうかがえました。
『研辰…』の方は、シネマ歌舞伎として映像にも残されている作品で、歌舞伎らしく華やかで多人数が出てくるものなので、10人近い登場人物を描き分けるだけでも大変です。それ自体がとても挑戦的な演目なのですが、それに加え、浪曲という語りの象徴でもある“人情”や“義”に「はて?」を投げかける主人公の有り様への共感も得ようと考えれば、二重に困難な取り組みだったとも言えるでしょう。
豊子師匠を彷彿とさせる美舟さんの相三味線と二人のお囃子方にも支えられ、それを見事にこなす奈々福さんを、平成中村座で歌舞伎界に新風を巻き起こした勘三郎丈は、草葉の陰から心強く見守っていたことと思います。とても心に沁みました。
木村綿花から野田秀樹へと受け継がれてきたこの問題作には、今失われている真っ当な社会批評の数々が散りばめられていて、所々に現代の社会問題に通じる表象が現れます。それは、この演目に表れる表現が浪曲の新しい“ありよう”を開き始めていることにつながっているはずです。その取り組みに心からのエールを送りたいと思います。
良くわからないけれど何かが気になる ― 2024年12月14日 17:34

一昨日で地元の日本語教室の今学期が終了しました。最後に外国人の日本語学習者から、それぞれ挨拶をしてもらいましたが、彼らの“わからないもの”を学ぼうとする意欲に少しでも応えなければと強く感じた次第です。
自分自身を省みれば、工業高校を卒業し就職したばかりの頃は、世の中のことが何もわかりませんでした。そのわからないものをわからないなりに知ろうとして通ったのが名画座です。通勤鞄には「ぴあ」といくら読んでもよくわからない「朝日ジャーナル」が入っていました。音楽のことが分からなくてFM放送で民族音楽を聴いていたのもこの頃です。まぁ、この年になっても「伝統芸能」といういまだに良くわからないものを聴いているのですから、あまり変わりませんが…。
日本語学習ボランティアとして外国人の若い人たちと対するとき、よくわからないままに学び続けてきたものが、何かつながりを持って見えてくることがあるのに気がつきます。それは、たとえば、過日観に行った安部公房展のところどころで、これは何だかよくわからないけれど気になるという知見が、後で何かにつながる予感を感じさせることと似ています。そういう積み重ねがあってこそ、初めて学習支援というものも成り立っていると考える年の暮れです。
自分自身を省みれば、工業高校を卒業し就職したばかりの頃は、世の中のことが何もわかりませんでした。そのわからないものをわからないなりに知ろうとして通ったのが名画座です。通勤鞄には「ぴあ」といくら読んでもよくわからない「朝日ジャーナル」が入っていました。音楽のことが分からなくてFM放送で民族音楽を聴いていたのもこの頃です。まぁ、この年になっても「伝統芸能」といういまだに良くわからないものを聴いているのですから、あまり変わりませんが…。
日本語学習ボランティアとして外国人の若い人たちと対するとき、よくわからないままに学び続けてきたものが、何かつながりを持って見えてくることがあるのに気がつきます。それは、たとえば、過日観に行った安部公房展のところどころで、これは何だかよくわからないけれど気になるという知見が、後で何かにつながる予感を感じさせることと似ています。そういう積み重ねがあってこそ、初めて学習支援というものも成り立っていると考える年の暮れです。
揺れる舞台の死と再生 ― 2024年12月24日 17:36

久しぶりに横浜港の艀(はしけ)を訪ねました。前日は15度を超える春のような陽気でしたが、一昨日は少し冬らしい寒風が吹き抜ける海に近い道を歩きます。今回も横浜ボートシアターの自主公演ではなく、船劇場に仮設された小さな舞台で、珍しい人形劇の公演が開かれたのです。
メキシコの脚本家で人形遣いでもあるモニカ・ホスさんが創作した『EMA』というオリジナル劇は、“死”が身近に意識されるメキシコならではの構成の中に、様々な文化的な意匠が織り込まれた形而上的な作品でした。
舞台には鉢植えの低木と木のベンチのミニチュアが置かれ、そこに老婆の人形が登場します。老衰を感じさせる細かな動きは、ホスさん自らが両手で直接操る小ぶりの人形で、枯れ木に水をやった後は、ただひたすらに自らの行く末に思いを馳せるばかりです。背景にかけられた布のスクリーンに、冥界や天界の多様な存在が影となって映し出される一方、ラテン系らしいと言っていいのかわかりませんが、時に熱情的な詩が朗読されます。そこには形式的な類似を超えた“死”の世界観のようなものが感じられました。
元々は子供向けの人形劇を多く書いてきたホスさんが、日本への訪問を機に大人向けに書いたオリジナル脚本で各地を公演するライブツアーがあり、たまたま船劇場の存在を知った弟子の高橋彩子さんが、日本での千秋楽の場所とするべく急遽実現に至ったそうです。岸壁に係留されていても、波止場に寄せる波に揺らされる艀の中は、特別な雰囲気のある空間を創り出すのに最適だったのでしょう。終演後、お二人はしばらく表に顔を出すことができませんでした。
人形やセットなど、いずれも日常の回りにある素材で作られた物ですが、わずかな時間、そこに命が吹き込まれたような気がします。最後、鉢植えの低木にかけられた小さな葉っぱのつながりが、命の連関を思わせて、横たわって死んだ老婆を見守っていました。トークを含めた講演全体が終わった後、劇中の影に表れた水紋の仕掛けがわかりました。水を張った水盤に墨や油を流して、それをオーバーヘッドプロジェクターで投影していたのです。ふと、砂絵アニメーションの制作風景を思い出しました。
公演そのものは短いものでしたが、とても充実した時間を過ごした気分です。
メキシコの脚本家で人形遣いでもあるモニカ・ホスさんが創作した『EMA』というオリジナル劇は、“死”が身近に意識されるメキシコならではの構成の中に、様々な文化的な意匠が織り込まれた形而上的な作品でした。
舞台には鉢植えの低木と木のベンチのミニチュアが置かれ、そこに老婆の人形が登場します。老衰を感じさせる細かな動きは、ホスさん自らが両手で直接操る小ぶりの人形で、枯れ木に水をやった後は、ただひたすらに自らの行く末に思いを馳せるばかりです。背景にかけられた布のスクリーンに、冥界や天界の多様な存在が影となって映し出される一方、ラテン系らしいと言っていいのかわかりませんが、時に熱情的な詩が朗読されます。そこには形式的な類似を超えた“死”の世界観のようなものが感じられました。
元々は子供向けの人形劇を多く書いてきたホスさんが、日本への訪問を機に大人向けに書いたオリジナル脚本で各地を公演するライブツアーがあり、たまたま船劇場の存在を知った弟子の高橋彩子さんが、日本での千秋楽の場所とするべく急遽実現に至ったそうです。岸壁に係留されていても、波止場に寄せる波に揺らされる艀の中は、特別な雰囲気のある空間を創り出すのに最適だったのでしょう。終演後、お二人はしばらく表に顔を出すことができませんでした。
人形やセットなど、いずれも日常の回りにある素材で作られた物ですが、わずかな時間、そこに命が吹き込まれたような気がします。最後、鉢植えの低木にかけられた小さな葉っぱのつながりが、命の連関を思わせて、横たわって死んだ老婆を見守っていました。トークを含めた講演全体が終わった後、劇中の影に表れた水紋の仕掛けがわかりました。水を張った水盤に墨や油を流して、それをオーバーヘッドプロジェクターで投影していたのです。ふと、砂絵アニメーションの制作風景を思い出しました。
公演そのものは短いものでしたが、とても充実した時間を過ごした気分です。
大切な言葉が遣われる小さな画面 ― 2024年12月31日 17:38
年賀状の文案を書きながら、年の暮れに一年を通して回顧する習慣が付いています。普段、リアルタイムで見ることがほとんどないテレビですが、今年はよく観たという印象が残りました。それは、NHKの大河ドラマと朝の連続テレビ小説をずっと観ていたせいかもしれません。『光る君へ』と『虎と翼』。二つの看板ドラマを同時期に全編観続けた記憶は過去にありません。それぞれに時代を画する特徴的な作品ではありましたが、一方は和紙に綴られた「連綿体」、一方は六法全書に記された「条文」という対照的な“言葉遣い”の中に、人の心を映し出してみようとしたドラマだったような気がします。
『光る君へ』が終わって1週間後、我が家で20年使ってきた液晶テレビの電源が入らなくなりました。道長様の最後に合わせたのかどうかはわかりませんが、以前から買い換えようとしていた気分を後押ししてくれたのでしょう。新しい液晶テレビにようやく慣れた頃、今度は二つの対談番組に引きつけられました。『拝啓十五の君へ』とシリーズ徹底討論『宗教と政治』Vol.9。一方は震災前の歌コンの課題曲『手紙』をめぐるアンジェラ・アキと五島列島の中学生との親交、一方は信教の自由を攻撃的な武器とする信仰という話です。「失われた30年」とも呼ばれる時代を生きた世代のナマの声が語るこの15年は、同時に鬱憤を吐き出すヘイトスピーチが跋扈(ばっこ)し始めた時代でもあったような気がします。言葉が持つ様々な側面を、新しい年に向けて考える時間になりました。
ちなみに、我が家のテレビは一回り“成長”しました。それでも、“4K”とは無縁の32インチです。
『光る君へ』が終わって1週間後、我が家で20年使ってきた液晶テレビの電源が入らなくなりました。道長様の最後に合わせたのかどうかはわかりませんが、以前から買い換えようとしていた気分を後押ししてくれたのでしょう。新しい液晶テレビにようやく慣れた頃、今度は二つの対談番組に引きつけられました。『拝啓十五の君へ』とシリーズ徹底討論『宗教と政治』Vol.9。一方は震災前の歌コンの課題曲『手紙』をめぐるアンジェラ・アキと五島列島の中学生との親交、一方は信教の自由を攻撃的な武器とする信仰という話です。「失われた30年」とも呼ばれる時代を生きた世代のナマの声が語るこの15年は、同時に鬱憤を吐き出すヘイトスピーチが跋扈(ばっこ)し始めた時代でもあったような気がします。言葉が持つ様々な側面を、新しい年に向けて考える時間になりました。
ちなみに、我が家のテレビは一回り“成長”しました。それでも、“4K”とは無縁の32インチです。