信仰以前の世界が示すもの2024年10月27日 17:08

お寺参りを続けています。といっても、本尊もろくに拝まずに、そこで開かれるイベントに参加しているだけなのですが…。開催時間を始めとする公的施設の制約も少なく、ご住職の関心のままに、比較的自由な環境で、様々な芸能の公演が、今“お寺”で開催されているのです。
 コロナ禍の前までも、広尾の東江寺で開かれる「寺子屋」には良く通っていました。能楽師安田登さんが主催して、多様なテーマの講演やワークショップが開かれていたからです。
 その後、人が集まる催しが次々に中止されてきたのと歩調を合わせるように、景気の後退を背景に集客ばかりを優先するイベントが増えていったような気がします。そうした中、芸能者自らが企画・主催することを考えた時に、たどり着いたひとつの答えが昔ながらの「寺子屋」だったのではないかと思うのです。同時に、先行き不安な時代にこそ「宗教」が社会に資する方便の一つとして、共に“学ぶ”場を提供することを多くの住職が考え始めたとしてもおかしくありません。
 と言うことで、一昨日は池上へ足を伸ばしました。訪ねたのは實相寺。本門寺のお聖人が隠棲した庵室があった場所だそうですが、池上駅から歩いて13,4分、長い直線道路に飽きたころ、本門寺方面に右折した正面にあります。上演されたのは『イナンナの冥界下り』。安田さん率いる“ノボルーザ”の精鋭が集まっての開催です。畳敷の大広間に舞台を設え、観客はその前の椅子に着席。上手脇の扉を揚幕のように開閉し、そこから演奏者と演者が現れます。演目はメソポタミア神話を能に翻案したような演劇で、台詞はシュメール語。音は日本語に似ていますが、ようやく文字化されたのは楔形という古代。まだ女性が主役だった時代です。その芝居を、面(おもて)ではなく人形を使って演じます。さらに、能の「翁」のように舞台上でそれを身につけるのです。そういえば、女神イナンナが翁、精霊たちが千歳、冥界の門番ネティが三番叟のようにも思えてきます。
 音楽も豊かです。異界への誘いのように琵琶が鳴るかと思えば、神々の登場に笙の独特な音色が添います。精霊の踊りには鋭いバイオリンの響きが重なり、太鼓はアメリカインディアンの踊りを彷彿とさせました。そららにキーボードの様々な音が被ります。豊かな音色を添えました。
 全体を暗くした広間を神主のような衣装に白足袋で歩く姿は、何やら「遷御」のようにも見えましたし、7つの神力「メ」を剥ぎ取られ鉤に吊るされた肉体は十字架のキリストにも似て、とても宗教的な意匠に彩られています。また、精霊が運ぶ「生命の植物」はノアの洪水後に鳩が咥えてきたオリーブを連想させました。
 最後、イナンナの復活劇は、川のような長い白布を持った登場人物全員の退場で締めくくられるのですが、能の橋がかりとは逆に、上手すなわち東方へ向かう冥界からの再生を意味しているようにも感じました。豊穣を予祝するような芸能を古代人はビールを飲みながら観ていたような記録もあるそうで、観終わった後の満足感に帰路が近くなった気分でした。