ディストピアへの信仰2024年07月16日 15:31

マスメディアに勤めていたこともあって、情報の圧倒的な不均衡(非対称性)や、情報の受容に関するリテラシーについては関心を持ち続けてきましたが、直近の東京都知事選挙に関わる諸々を見ているうちに、何か想像を超える世の中が既に到来していると感じます。以前からディストピア小説はいろいろと読んできましたし、ミステリーや歴史小説でもどちらかと言えば不条理な結末に惹かれるようなところがあるのですが、現実はもうそれらを通り越してしまったようです。
 おそらく、ここに至るまでに様々な変化はあったのでしょうが、情報(特にネット動画)の自主的な受容制限の結果、私が市民社会の変容に気が付かなかっただけなのかもしれません。先日、オンラインで日本語学習を支援している留学生に話したことですが、80年代のテキストだけ(顔文字を含む)の“SNS”「パソコン通信」では、“ROM”と呼ばれる読むだけの人を除き、挙がったトピックへの「対話」が中心でした。だからこそ、たまに開かれるオフラインミーティングで、その対話の相手と直接会うことが情報の信頼度を上げていたように覚えています。
 そのレッスンが終わった後、たまたま録画していた「こころの時代」(Eテレ)の「宗教と政治」(シリーズ徹底討論Vol7,8)を観ました。前後半に分かれたテーマは「宗教は分断をもたらすのか」と「他者とどう向き合うか」で、世界各地の“宗教対立”や“他者排除”の実態と原因を探るというものです。「信仰」という宗教的な基本姿勢と、他者との共存を図る態度の両立をどのように構築していくかが主な議論だったと思いますが、それを聴いていて頭に浮かんだことは、ネット言説への“信仰”に近い態度が社会に拡がっているのではないかというものです。
 Twitterの短いメッセージと同様に「切り取り動画」と呼ばれる映像の拡散が話題になっていたらしいことは後で知りましたが、「エバンジェリスト」が職種の名前にまで使われるようになる金まみれの情報資本主義のなれの果てのような、およそ「対話」とは正反対の言葉が拡がっているのでしょう。
 日々、外国人と日本語で対話しながら、この国の言葉を彼らに託したくなる願いが出てくることを禁じ得ません。