ハイブリッド化する古典劇 ― 2024年06月24日 15:28

6年ぶりの「座・高円寺」。前回は劇団「態変」の『ニライカナイ』、その前はさらに5年遡り風琴工房の『国語の時間』でした。今回の『日韓琉 鎮魂の祭り』は、シテ方能楽師清水寬二さんを中心とした実行委員会が主催し、故多田富雄氏の新作能『沖縄残月記』・『望恨歌』に加え、韓国と沖縄の伝統芸能を組み合わせた4日間連続の公演です。その最終日を観てきました。
演目は第一部が韓国の農楽から『パンクッ』と『農夫歌』。パンクッは韓国語で판굿、放浪の芸人たちが農村を巡っては村々で豊作を予祝する音楽の一つ。太平簫(テピョンソ:管楽器)の“一声”から始まる集団演奏の音楽は、本来は戸外で行われるものだけに、会場をその世界一色に染め上げてしまう豪快さがあります。一方で、その様子には、儺戯(なぎ:追儺、鬼遣らい)から能へとつながる東アジアの伝統芸能の流れを感じさせるのです。その農楽に歌が入ったものが農夫歌。パンソリの唄者(ソリックン)である安聖民さんの声ならではの迫力で、強く豊かに響きます。
第二部は能『沖縄残月記』。太平洋戦争末期の沖縄戦の戦禍を題材にした作品です。壺屋の陶工の息子が風車を手にしたことでマブイ(魂)を落とし、ユタの言葉のままに親子で浦添の森へ向かうと、清明節の月夜の晩に曾祖母の霊に出会います。その“大ばんば”カマドが子供を亡くした沖縄地上戦での有様を縷々(るる)語るのです。演目全体に沖縄の伝統歌謡が散りばめられ、沖縄語の詞章が多いシテツレ(陶工)は能楽師ではなく沖縄音楽の演者になりました。二日目に演じられた同じ演目より、多くの演出を加えた「ウチナーバージョン」とも言える取り組みの成果なのです。
たとえば、天籟能の同人である槻宅(つちたく)聡さんの笛“一声”がある一方で、琉球笛で始まる場面も配されており、能と沖縄伝統劇が渾然一体となった新しい演劇の創造に立ち会った心持ちがしました。多田さんの創作に新たな光芒(それは太陽の子:テダノファかもしれません)を射した演出は、この作品が古典劇として残る上での大きな意味付けを示したように思います。沖縄での再々演が遠からず行われるものでしょう。
公演の最後は、高円寺ならではの特別ゲスト阿波踊りの「ひょっとこ連」も登場し、日韓琉フェスティバルの打ち上げに相応しいエンディングで締められましたが、後刻聞いた話によれば、それは関係者の宴席で隣り合わせた縁から生まれた企画だったようです。東アジアの芸能がこれからも様々なカタチで縁をつなぐ場に参加していければと考えています。
演目は第一部が韓国の農楽から『パンクッ』と『農夫歌』。パンクッは韓国語で판굿、放浪の芸人たちが農村を巡っては村々で豊作を予祝する音楽の一つ。太平簫(テピョンソ:管楽器)の“一声”から始まる集団演奏の音楽は、本来は戸外で行われるものだけに、会場をその世界一色に染め上げてしまう豪快さがあります。一方で、その様子には、儺戯(なぎ:追儺、鬼遣らい)から能へとつながる東アジアの伝統芸能の流れを感じさせるのです。その農楽に歌が入ったものが農夫歌。パンソリの唄者(ソリックン)である安聖民さんの声ならではの迫力で、強く豊かに響きます。
第二部は能『沖縄残月記』。太平洋戦争末期の沖縄戦の戦禍を題材にした作品です。壺屋の陶工の息子が風車を手にしたことでマブイ(魂)を落とし、ユタの言葉のままに親子で浦添の森へ向かうと、清明節の月夜の晩に曾祖母の霊に出会います。その“大ばんば”カマドが子供を亡くした沖縄地上戦での有様を縷々(るる)語るのです。演目全体に沖縄の伝統歌謡が散りばめられ、沖縄語の詞章が多いシテツレ(陶工)は能楽師ではなく沖縄音楽の演者になりました。二日目に演じられた同じ演目より、多くの演出を加えた「ウチナーバージョン」とも言える取り組みの成果なのです。
たとえば、天籟能の同人である槻宅(つちたく)聡さんの笛“一声”がある一方で、琉球笛で始まる場面も配されており、能と沖縄伝統劇が渾然一体となった新しい演劇の創造に立ち会った心持ちがしました。多田さんの創作に新たな光芒(それは太陽の子:テダノファかもしれません)を射した演出は、この作品が古典劇として残る上での大きな意味付けを示したように思います。沖縄での再々演が遠からず行われるものでしょう。
公演の最後は、高円寺ならではの特別ゲスト阿波踊りの「ひょっとこ連」も登場し、日韓琉フェスティバルの打ち上げに相応しいエンディングで締められましたが、後刻聞いた話によれば、それは関係者の宴席で隣り合わせた縁から生まれた企画だったようです。東アジアの芸能がこれからも様々なカタチで縁をつなぐ場に参加していければと考えています。