政治不信三題噺2024年04月29日 13:22

衆議院3地区の補欠選挙が終わりました。補選とはいえ、東京15区は史上最低の40.7%だったそうです。この国で10年を超える棄民の政策が続いている中で、依然として国会議員選挙の投票率が低いのは、国民に“主権者”であるところの自覚が全くないからなのでしょう。日本に住む外国人にそれをどのような言葉で説明するのかをいろいろと考えています。
 一つは「政治不信」という言葉です。政府与党を中心にした多くの議員の脱法的な行為に対し、選挙の有権者が持つ一般的な意識をマスコミがそう呼びます。彼らが垢にまみれたこの用語を未だに使い続けるのは、政治部記者の劣化はもとより、本質的な問題から議論を避ける時に使いやすいからでしょう。この国の政治風土に良く合っています。つまり、もう一方にある「政治的無関心」がセットです。
 次は「消費者」です。長期に渡る政権与党のネグレクトによって自己肯定感を失ってきた国民の多くは、新自由主義による“消費者”心理膨張の果てに、「投票」という短期の利害では計れない行為に意味を見つけられなくなったのでしょう。過日、新人職員への挨拶で差別的言辞を弄して退職した県知事がいましたが、何も生み出さないブルシットジョブが横行する“中抜き”社会の中で、「生産」とその「流通」を支えている職業者へのリスペクトがまるで無いことへの裏返しです。たとえば、映画監督今井正に『米』という作品がありますが、今どれだけの人が知っているでしょうか。
 最後は「詭弁」です。ネットを始め、今や日常茶飯事になっています。電通を始めとするコンサルのビジネスモデルから、巷に溢れる“消費喚起”の広告群、政府広報と堕したニュース。果ては最たる“不信”の種である「閣議」まで、枚挙にいとまがありません。繰り返し書いていることですが、封建制下の江戸庶民の方がはるかに“御上”の嘘を見抜いていたように思います。中村勘三郎丈が生きていたら、“令和中村座”の演目にどのような外題を付けたかを想像してみたくなりますが、それはそれ。とりあえず次の一句を・・・。
 減る木々や 昭和は遠く なりにけり(“草太夫”)