新春を寿ぐ集い2024年01月14日 12:48

昨日は、朝から寒さが少し緩み陽の光も差し込んで日中はややおだやかに晴れていたかと思うと、午後から雷雨となる変化の激しい一日でした。午前中は留学生との新年最初のレッスン。“雪降れば”で始まる紀貫之の名歌を紹介しました。見立ての名手ならではのイメージを喚起する言葉遣いは、古典に相応しい気高い響きに満ちていて、空語と冷笑が溢れるネットの世界をしばし忘れさせてくれるものです。
 いつもより早く終えて、午後は代々木上原の梅若万三郎家能舞台を訪ねました。復曲能を観る会主催の「新春を寿ぐ集い」です。今年は元旦から大きな災害もありましたので、三が日からの開催案内も自粛したそうですが、そもそも「能」は慰霊の芸能でもあり、“寿ぎ”の中には被災者に向けた祈りも含める気持ちがありました。会場で義援金が集められたのもその一つでしょう。
 さて、内容は新年に相応しい演目が並びました。最初の狂言小舞は二曲。「いたいけしたるもの」(能『三井寺』の間狂言?)は子供が喜ぶオモチャになりそうな数々の品を順番に謡いながら舞う短いものですが、変化も多く切れ味のある動きが特徴です。さながら、伝統遊戯の『My Favorite Things』といったところです。もう一曲は「御田」(能『加茂』の間狂言)。神主と早乙女の遣り取りの謡に合わせ、175回(?)の足拍子を軸にした舞が演じられました。“足踏み”は地鎮で良く使われる一方、地中の精気(?)を呼び覚まし五穀豊穣を祈る意味もあるようです。こちらは思ったより長い舞でした。
 次に、参加者全員で能『高砂』の待謡を合わせてから、この演目で使われる能衣装の着付けと面の“当て”の説明がありました。内着の衿の色の違いや、袴の立体的な構造、面の付け方など詳しい説明があり、後シテに変わる短い着替え時間に間違いなく身支度する難しさは、歌舞伎の早変わりにもつながっているようです。最後はその装束で『高砂』から住吉明神の寿ぐ舞が披露されました。
 ワークショップの終了後、会場の外では俄に雷鳴が轟き、あたかも神様が新しい門出と豊穣を約束してくれたかのような“演出”になりました。これも“予祝”の芸能ならではと得心します。

異なる支持率2024年01月19日 12:58

先日、NHKが出した政党支持率の図表が旧Twitterで流れていたのを目にしました。自民が30%を超えるというにわかに信じられない数字だったので記憶に残っています。ところが、本日東京新聞に掲載された時事通信の政党支持率調査によれば、昨年からの自民の続落傾向は進み、1960年の調査開始以降で最低の14.6%だそうです。これはいったいどういうことでしょうか。図は1月15日のNHKと1月18日の時事通信の記事に載った調査結果の図表です。
 時を隔てずに大手メディアで単純に倍近い数字の違いが出ることに大きな違和感を感じています。調査対象者が違うのは当然ですが、これが、全くのランダムサンプリングではなくて、仮にNHK受信契約者と新聞読者だとしても、ちょっと信じられない差だと言えるでしょう。
 親分に身代わりをたて、違法な裏金が暴かれても秘書や会計責任者しか立件されないという“企業舎弟”のような常識が永田町あたりには渦巻いているようですが、近頃は一般人の理解を超える事象があちらこちらで様々に起きているようです。

テレビ芸人の胡散臭さ2024年01月22日 13:01

松本某に対する“性上納”などと名付けられた女衒まがいの接待が、吉本興業のお笑いタレントの間で広く行われていたと週刊誌が報じてから、旧Twitterあたりでも様々に話題になったので私のような“情弱”にも少しだけ話が届きます。そもそも、あの程度の芸人もどきをMCなどに起用するテレビの「冠」番組も、それを見て喜ぶ視聴者にも関心は無いので、活動停止になって名前を見ることが無くなっても個人的には何ら変わらないのですが、それを残念だという落語家や漫才師などが出てきて、“お笑い”の世界がさも特別なものであるかのように語ることには呆れます。
 下世話な無駄話を内輪ですることにたいした問題はありませんが、いやしくも“公器”と呼べるようなメディアで垂れ流すバカさ加減がテレビ番組を甚だしく劣化させたことについて、業界人はそろそろ気づくべきではないでしょうか。普段から観ない者が言ってもしようが無いのですが、その業界で仕事をして、多少なりとも番組制作に関わってきた者としては“オワコン”そのものの本当の“終わり”も近いかと案ずるところです。
 “語り”は“騙り”とも重なり、大道を往く遊行の芸人が持つ如何(いかが)わしさについていろいろと考えたこともありますが、“クールジャパン”に結び付き国税100億の出資を受ける吉本興行の“胡散臭さ”ほど本来の芸能からほど遠いものはないでしょう。目が肥えた江戸の庶民ならとうに見捨てられていたはずです。そこまで遡らなくとも、小沢昭一さんや永六輔さんが生きていたら、この惨状をどのような語りで嘆いたことでしょう。