創られた現実社会に生きたい? ― 2016年07月23日 18:58
「いい大人が…」とあえて書く。作った者にこそ届けたい言葉だ。
「ポケモンGO」というARを利用したスマホアプリのことである。
その昔「AR三兄弟」と呼ばれた初期の開発者たちが、ビデオカメラの実写と3DCGを組み合わせたAR技術のプレゼンテーションをテレビ番組で放映していたのを懐かしく思い出しながら、誰もが使えると同時に、誰もが傍若無人になるような行為を結果的に促すものになってしまったことを心底から悲しく思う。
いわゆる4Kだの8Kだのという高精細画質への技術進展より、身近に私たちの暮らしに直結して、それを大きく揺さぶる可能性を感じていた一人としては、ARがスマホのゲームとして情報消費欲を煽るだけの貧弱な可能性に使われている現状がやるせない。
午前中に隣駅まで歩いて行く先々で、スマホを持ったまま一心不乱に前を進む光景に出会った。もちろん、一々画面を覗いたわけではないから、実際には何をしていたかはわからない。しかし、昨日来の新聞やネットニュースで日本での配信による騒ぎが始まったことを目にすれば、「あぁ“ポケモンGO”か」と予断してもおかしくはないだろう。
そうした様子に「引きこもりが外に出た」と発言した御仁もおられるようだが、その言葉は本人の意識にあるかどうかはわからないが、案外と核心を突いている気がする。このアプリの特徴は、カメラのレンズを通して小画面に映る“境界”を持った偽の外界と接触することで、液晶のフレーム外に実際に存在する外界との物理的感覚を見失う可能性が今まで以上にあるということだ。だからこそ、対人関係をも気にすることなく、そして関わることなく「外に出」られる。
もちろん、画面への集中による注意散漫が交通事故など不測の事態を引き起こす可能性は高い。提供会社は「公共のルールを守り」だの「公共の場でのマナーを忘れないよう」に「周囲に注意をはらい、他のユーザーを尊重して」などと他人事のような“ガイドライン”を出しながら「楽しく遊びましょう」と呼びかけている。そこでいう“公共”とは一体何なのか。人や動物・自然・器物など社会を構成する数多くの要素に対して、自立した個人として“関わる場”のことではないのだろうか。
実現不能と思われる“ガイドライン”をあらかじめ出しておいて、“公共”圏に傍若無人に入り込むことで起きる様々なトラブル・リスクに対する責任を回避しているとしか思えない。サービス利用規約には「行動規範」などという項目があり「お客様は、本サービス利用中のお客様自身の行為及びユーザーコンテンツ並びにこれらにより引き起こされるあらゆる結果について責任を負うことを同意」するとなっている。ここには“引き起こされる”結果について想像することを拒否する姿勢が明確に現れている。
社会的影響力があるコンテンツが創り出されること自体に問題はない。ただ、現実世界を切り取って弄ぶだけに留まらず、他者が共存する世界に土足で踏み込むような真似は“大人”のすることではないと言っているのだ。だから「いい大人が…」なのである。不熟の者が言っても説得力はないだろうが…。
P.S. ちなみに私は、昔の“コダック”が好きだった。今は知らない。