思惟像は何を考えている?2016年07月08日 16:59


 亀戸で公演を聴いた日の後日談、いや後刻談になるが、総武線で秋葉原へ出て山手線に乗り換え上野へ出た。実は先日あるイベントに参加した際に、東京国立博物館で開催中の「ほほえみの御仏 二つの半跏思惟像」特別展のチケットをもらったからだ。上野往復の交通費を考えて展覧会だけに行くのを躊躇していたところもあったが、亀戸まで来て寄らないのはもったいないので、ついでに立ち寄ることにした。

 暑さのせいか日曜日の午後にしては人出が少ないように見える上野公園を抜けて博物館に入場したところ、本館内の会場も思いのほか空いていた。二つの思惟像は展示室の中に10mほど離して置かれた背の高いガラスケースに収められ相対している。その周りを観客がぐるっと取り囲んで観てはいるが、少し待てば前後左右の四面どこからでも間近に観ることができる程度の混み具合だった。

 韓国の思惟像は冠をかぶった金銅製の小柄な仏像だ。それに対し、日本の思惟像は二つの丸髷に光背を背負った木製の大柄な仏像である。元々はほとんど同型の韓国の国宝83号と広隆寺所蔵思惟像の展示が構想されていたと聞いたが、こうして相対しているのを観ると、同じ半跏姿勢をとりながらもいろいろと違いがある二つを揃えたことが却って良かったように思う。

 しばらく眺めていて、その微妙な違いに気が向いた。韓国のそれは膝の上に組んだ足の裏が天を向いている。頬に当てた指先も強く、やや下向きの表情は思惟にふさわしい趣がある。対して、日本のそれは足の裏が後ろに向いており、あごの近くに添えた指は軽めで、やや瞑想に近い面差しだ。金銅と木という材質の違いが影響を及ぼしていることもあるのだろうが、一方で、それは作られた社会環境の差を表しているようにも見えた。

 話は変わるが、今回の展示を観ていて気がついたことがある。会場入口の挨拶文を読むと、韓国側はたしか国立中央博物館館長の個人名だったが、日本側はたんに主催者となっていた。もちろん無理に合わせる必要はないのだが、東京国立博物館側を代表する個人はいなかったのだろうか。日韓国交正常化50周年を記念する催しであるならなおのこと、主催者の中からこの展示会の意義や目的を自らの言葉として語る人が出てきて欲しかったと思う。

 また、特別展の会場として本館が使いやすいこともあるのだろうが、たとえば東洋館で開催することはできなかっただろうか。エジプトから西アジア・西域、そしてインド・ガンダーラ・中国まで、古代美術や仏教とのつながりを感じさせる展示物がここには目白押しだ。第10室には朝鮮半島の美術もまとめられており、そこには小さな菩薩半跏像まであるのだ。今回の国宝級の二つの思惟像が作られた歴史には、それ以前に同様の営為を続けてきた地球規模での人々の想いが連なっているはずなのだ。その連関を来場客に示してこそ学芸の本来の役割が果たせるというものではないのだろうか。素人の浅知恵かもしれないがとても残念である。