条件反射のような狂騒 ― 2016年06月18日 00:55
舛添都知事が辞職した。今講読している新聞も同様だがマスメディアによるバッシングともいえる過熱報道は波が引くように消えた。あれはいったい何だったのだろう。
公人としての節度を超えた行動であることに疑問の余地は無いが、それにしてもこの1週間あまりはニュースが奏でる“狂騒曲”に辟易していた。異常だと思う。家族が録画した紀行番組を観る際に、僅かに映るその時放送されている情報番組から聞こえるコメントだけでも、それが“まなじり”を決した発言なのだろうことは容易に推測できた。一種の精神疾患が“攻撃心”を向けるべき相手を見つけたかのようだ。
元々、騒音がきらいだということもある。大型の家電店や古書店の店内放送、交通機関の車内放送はもちろんだが、最近は街の小さな書店まで必要のない音楽を流している。耳栓を常備してその都度、精神の安寧を保たなければならない。テレビを観なくなった原因の一つには過剰なBGMもある。
話が脱線した。前に戻す。舛添氏にあまり好感はない。それでも東京五輪の準備にあたっては、当初の“コンパクト”五輪(死語になったか?)という“お題目”を旗印に、無計画な五輪組織委員会や文科省を相手にして、ある程度は都予算の運用を慎重に考えていた節がある。
その上で、これまでの自身個人に関わる驕慢な浪費癖が無くなるのであれば、より一層都予算の使途に注意深くにもなった可能性があったかもしれない。政治家を育てる為の勉強代と考えれば安くつくと言ったら非難の声を浴びるだろうが…。
都知事選で膨大な費用を捻出しなければならなくなり、青天井になりそうな五輪予算に歯止めどころか大枚注ぎ込むような知事が選ばれでもしたら、この先一体どうなるのだろうかと隣県に住む一人としても憂慮に堪えない。
昨日、横浜国大で昨今の文系学部解体に関する議論が行われたのを門外漢として聞いてきたのだが、リベラルアーツが衰退していく社会の一面をこの1週間のメディア報道はとても良く象徴しているように見える。