鬼への関心2021年01月22日 18:59

映画『鬼滅の刃』が引き続き観客数を伸ばしている。コロナ禍での不安をまぎらわす手段の一つとしても受け入れられているのだろうか。原作を含めたその内容については、ほんの断片を伝え聞くだけなので良くわからない。ただ、「疫鬼」のような見えないモノへの恐怖が拡がっていることと大いに関係しているのは間違いないだろう。機会があればマンガを読んでみたいと思う。
 「鬼」については、ずっと前から関心があった。まず、物心(ものごころ)つかない頃から様々な場で聞かされてきた「桃太郎」という昔話が気になっていた。先住民を征討した歴史を“正当”化するような物語が創作・流布されたことで、いわゆる“正史”を補完するものとして語り伝えられてきたという認識が私にはある。
 「鬼」は昔から、風水の丑寅にあたる「鬼門」除けの対象として、あるいは酒呑童子など、時代時代に応じてその姿形(すがたかたち)を変えながら表象されたが、多くは、支配権力に“まつろわぬ者”を異形の姿になぞらえて自らの優越を保証するものとして形作られてきた。しかし、さらに古代にさかのぼれば、普段は見えない、つまり「居(お)ぬ」者であるゆえ、時に来訪神やマレビトとして応接してきた歴史もあり、ユネスコの無形文化遺産になるほど今も全国各地に「鬼祭り」は残っている。海や山という異界から来た来訪者を歓待する“島国”ならではの基層文化を体現する「鬼」の姿を、キャラクターグッズの単なる消費文化として使い捨てることなく、幅広い関心の中で記憶にとどめたいものだ。
 実は、昨日、コロナ禍で休止になっている日本語教室の代替としてZoomレッスンを行った際、相手の学習者が映画『鬼滅の刃』を観てきたと話した。日本語がまだたどたどしく、日常会話の機会もほとんどない自らの環境にも投影できるのか、鬼になってしまう妹のキャラクターが特に印象的だったようだ。それを受けて私もあることを思い出した。アメリカ合衆国出身の日本文学研究者ドナルド・キーンさんが日本に帰化するにあたって、名を「キーン ドナルド」と改めた時、その雅号を「鬼怒鳴門」と漢字で表していた。これこそ、“来訪神”の素晴らしい識見である。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://amiyaki.asablo.jp/blog/2021/01/22/9340037/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。