風土が生み出す物語2020年12月31日 15:57

東日本大震災があった年の秋口に下諏訪の八島ヶ原湿原を訪ねたことがある。原発事故による電力危機で“節電”が季語になるような夏を無難に過ごした後、新聞もテレビも無いランプの宿に二泊することにした。山の上の湿原の池は鏡のような水面を湛えていて、木道をゆっくり歩くと爽やかな風に満たされるような心持ちがした。夜はレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』をゆっくり読んで、帰る日には諏訪湖畔を散策しながら、またいつか再訪したいと思った。それにしても、あれから9年も経つが、こんな世の中になるとは予想だにしなかった。
ちょうどその頃、ある映画の取材者もこの地を訪れていた。そのことを、今年最後の読書で知った。身近な習俗に残る豊かな基層文化を探してドキュメンタリー映画『オオカミの護符』に仕上げた小倉美恵子さんの著書『諏訪式。』である。来年完成予定の映画『ものがたりをめぐる物語』の舞台となる諏訪地方一帯の風土と人を様々に取り上げて、この場所が、古いものと新しいもの、二つの異なる相を習合するような試みの中から未来を創造してきた歴史を辿り、行く末の生き方を模索するためのヒントを得ようとしている。
この一年、とても不思議なことに、私は様々な“冥界下り”の「例え」(物語)に触れることが多かった。それは、はるか彼方にあるものではなく、パラレルワールドのように、すぐ近くの境界で接して存在しているもので、意識下の働きがそれを必要とするときに呼び出されて来る世界のように思われた。そこには生まれ育った風土が何かしらの影響を与えているのだろうが、同時に、何か“呼ばれて”いるように感じるものがある。それを確かめる旅をいつかしたいと思う。