他者の言葉を学ぶ2020年12月08日 15:44

購読している東京新聞の12月8日付け夕刊に「アイヌ語を学ぶということ」と題したコラムが掲載されている。「大波小波」という文芸欄の短いコラムである。内容は、神謡だけではない現代に生きる言葉としてのアイヌ語の学習が中心だが、その前段として、以下の文章により“他者”の言葉を学ぶ意味を述べている。
〈 かつて詩人金時鐘(キム・シジョン)は兵庫県湊川高校で、朝鮮語を正課として教えた。日本人の生徒たちは最初当惑した。なんでやるねん。英語と違い、直接に実益に結び付かない外国語を学ぶ意味がわからなかったからである。金教諭は答えた。「再度、『朝鮮語』をはずかしめる側の『日本人』に、君達を入れてはならなかったのだ」 生徒たちは納得し、学習を開始した。言語を取得とは他者の言葉を学ぶことであり、つまりは他者性という観念を学ぶことなのだ。 〉
退職直前から学び始めた外国語に「韓国語」を選んだ理由を、ドラマや新書を“きっかけ”として人に説明することは多いが、私の場合、上記のような“心持ち”がどこかにあったことも間違いない。尹東柱の詩や映画『マルモイ』が胸にこたえるのは、この外国語を最初に選んだ時から一つの必然だったと思う。