失われそうな言葉を集めること2020年12月01日 15:05

ずっと見逃していた『マルモイ』を黄金町ジャック&ベティのアンコール上映でようやく観ることができた。日本統治下の朝鮮語学会事件をベースに『タクシー運転手』の脚本家オム・ユナ氏が監督・脚本を務めた韓国映画である。題名の「マルモイ:말모이」は韓日辞書の見出しにはないが、ハングルによる韓国初の国語辞典の通称である。だから、日本語での映画紹介には直訳的な“ことばあつめ”という訳が採られている。
15世紀に創製された文字であるハングルによる朝鮮語が、不遇の時代を超えて植民地からの独立運動の中で自らの言葉を取り戻そうとする人々の希望の“種”になったという話である。
京城に住む無頼漢の子持ちキム・パンスがひょんなことで辞典編纂の企てに巻き込まれるところは、『タクシー運転手』を彷彿とさせる。巷(ちまた)に生きる庶民が一方の主人公となる設定だ。既に『マルモイ』を観た人も多いだろうし、これ以上のあらすじには触れず、各シーンで印象に残ったことを書く。
朝鮮語学会の本部は街の本屋の奥にある。その本屋の出入口近くに配架されているのは“詩集”である。韓国の書店は光化門近くの教保文庫と西村のギルダム書院しか知らないので、普通の街の本屋がどうなっているかはわからないが、隣国の人々は“詩”が好きなので宜(むべ)なるかなと思う。詞(ことば)を集める本屋という仕掛らしい。そういえば、劇中で子どもたちが唄う“詩”について、誰か教えてくれる人はいないだろうか。
現在、ウリナラ(韓国語で“自分たちの言葉”)のミンドゥルレ(:민들레)はタンポポである。劇中、門の周りに集まり咲くからだと説かれる。しかし、「門」は韓国語で「ムン:문」。“ミン”ではなく“ムン”である。画面のハングル表示も“민”ではなく“문”だ。ただ、ムンドゥルレ(:문들레)も確かにあった。日本でも有名な詩人尹東柱の出身地で独立運動が盛んだった北間島(プッカンド)の方言ではタンポポをそう呼ぶ。
無筆の主人公が文字を学び、居酒屋でマッチ棒を並べて復習する。頭から順にカナダラマ(ㄱㄴㄷㄹㅁ)と並ぶ角ばった子音の次に来るのは無声子音の“イウン”(ㅇ)。そこに置かれるのは焼酎の丸いグラスである。ドラマ『根の深い木』でも描かれたハングル創製の核心「喉音」を表す文字が酒好きの庶民と響き合っている。
それから彼は学び続け、書棚に置かれた一冊の本を読むようになる。今も有名な短編小説『運の良い日』(玄鎮健:ヒョン・ジンゴン)、1920年代のソウルを舞台に妻を亡くす一介の車引きの物語である。私はそれをアニメーションスタジオ「鉛筆で瞑想する:연필로 명상하기」の作品で知っていた。韓国近代文学の揺籃期は植民地下にあった。
自分たちの言葉が失われるかも知れないという危機感が、日常の暮らしの隅々にまで拡がっていた時代に、それを集めて残そうと尽力した多くの人々がいたことを知るのは、“空語”が蔓延するこの現代にあって、“ことば”を大切に扱うことをもう一度考えさせる意味で大きな切言となっている。多くの人に観てもらいたい映画である。

差別不干渉の反応が世界に拡がる2020年12月04日 15:07

ナイキのCMがネット上で大きな話題となっている。今、その内容には触れないが、日経ビジネスのWebページに連載されている小田嶋隆のコラムがとても重要な指摘を行っている。
それは、ネット上に溢れかえる匿名日本人の“差別不干渉”の態度表明が、DeepLなどの翻訳ツールを通してそのまま世界に発信される状況にあるということだ。だから、「BBC、ロイター、ガーディアン、フランス24」など海外の大手通信会社によってネット上での大きな“反応”が報じられる。
留学生の日本語学習支援を始めて以来、海外から見られる日本という国の姿をそうした海外メディアを通して意識はしてきたが、自動翻訳によって直接的な一時反応まで彼ら留学生は知っているということを、これからは肝に銘じなければいけないようだ。もちろん、面と向かって尋ねるような“非日本人的”な態度を彼らは取らないかもしれないが…。
*小田嶋氏のコラムは有料記事だが、著者自身の「ギフト」によるシェアで明日9時までは無料で全文が読める。

他者の言葉を学ぶ2020年12月08日 15:44

購読している東京新聞の12月8日付け夕刊に「アイヌ語を学ぶということ」と題したコラムが掲載されている。「大波小波」という文芸欄の短いコラムである。内容は、神謡だけではない現代に生きる言葉としてのアイヌ語の学習が中心だが、その前段として、以下の文章により“他者”の言葉を学ぶ意味を述べている。
〈 かつて詩人金時鐘(キム・シジョン)は兵庫県湊川高校で、朝鮮語を正課として教えた。日本人の生徒たちは最初当惑した。なんでやるねん。英語と違い、直接に実益に結び付かない外国語を学ぶ意味がわからなかったからである。金教諭は答えた。「再度、『朝鮮語』をはずかしめる側の『日本人』に、君達を入れてはならなかったのだ」 生徒たちは納得し、学習を開始した。言語を取得とは他者の言葉を学ぶことであり、つまりは他者性という観念を学ぶことなのだ。 〉
退職直前から学び始めた外国語に「韓国語」を選んだ理由を、ドラマや新書を“きっかけ”として人に説明することは多いが、私の場合、上記のような“心持ち”がどこかにあったことも間違いない。尹東柱の詩や映画『マルモイ』が胸にこたえるのは、この外国語を最初に選んだ時から一つの必然だったと思う。

旧弊なる差別性を考えるきっかけ2020年12月12日 15:46

年内はこれが最後になるだろう映画鑑賞に出かけた。コロナ禍で感染者数が増えているのは承知しているが、上映が人出の少ない“午後イチ”だったこともあり、本日で終了となる『82年生まれ、キム・ジヨン』をどうしても観ておきたかった。
原作はチョ・ナムジュの同名の小説。2016年に発行されて韓国で130万部という大ベストセラーになった作品で日本語版も累計21万部を超えたという。この欄で何度も触れていることだが、韓国で勃興している新しいフェミニズム小説の代表格である。ただ、私は斎藤真理子さんの訳書をまだ読んでいない。もちろん、マグリットの抽象絵画を思わせる名久井直子さんの装丁は書店の海外文学のコーナーで一際目立っていたし、最寄りの駅近くにある“ごく普通”の本屋まで平置きにしたぐらいだから、若い女性を中心に多大な関心を集めていたことは良く知っている。ちなみに、映画化に合わせて購入したものも含まれるだろうが、横浜市の図書館には41冊あり、現在も402件の予約がある。
映画の内容については、既に様々な所で多くの人たちが語っており、今さら触れることもないだろうが、日本語訳で唯一読んだことがあるチョ・ナムジュの短編における淡泊な場の表現が、とても映像化しやすいものだということについての予感はあった。日常のごくありふれた風景の映像描写は、韓国ドラマなどにも出てきそうで随分定型化しているが、その分、登場人物の言葉や内面の表現に特に意を注いでいる。“憑依”はその最たるものだ。つまりは、全編を通して主人公の思いが真っ直ぐに出るような仕掛けになっている。そして、無責任な公言に含まれる「ママ虫」という差別言辞にさらされ、勢い込んで反駁した行動の結果を、精神科医に「(気分は)悪くなかった」と応える“ジヨン”の言葉が多くの観客に届いたはずだ。
旧弊なる差別性からなかなか抜け出せない男たちにとって、それは女性からの精一杯のメッセージとして受け止めるべきものだろう。旧来の非対称を考えるきっかけとして…。

何を伝えるのか2020年12月14日 15:47

もう20年も前になるが、その時のことを今でもはっきり覚えている。仕事を終えそろそろ帰宅しようとしていた職場の居室で、まだ残っている同僚達が大型テレビの前に集まっていた。高層ビルに飛行機が激突して燃え上がっている映像だった。その直後、2機目の突入による爆発をリアルタイムで観た。今も時々見かけることがある世界貿易センタービルへの“テロ”攻撃の映像である。
この映像は繰り返し様々なメディアで取り上げられ、今後も歴史的な記録資料として多くの人々の目に止まることになるだろう。事件をきっかけとしてアメリカのブッシュ政権はアフガニスタンへの侵攻から「疑惑の大義」によるイラク戦争へと西アジアで大きく戦火を拡げた。その結果、多くの被災者・難民が生まれ現在もなお過酷な環境下に置かれている。
そうした状況が、小さな製作プロダクション、時には個人の努力でドキュメンタリー映画として紹介されることはあるが、大手メディアで観ることは少なく、ごく普通の暮らしを営んでいる人々の目にはなかなか触れない。少しでも関心があればネットを含めてそうした情報にアクセスすることは十分に可能であるが、組織的で大掛かりな情報伝播社会の下で埋もれている。
たとえば、内戦・空襲の被害者や難民・国内避難民の実態を示す映像と、上記のビル激突映像とが、それぞれ世界で受容された数には明らかな非対称性がある。それぞれの被災者の実数を考えてみれば、その非対称性の程度は天文学的に大きなものであることもわかるだろう。
だからこそ、そのような圧倒的な情報伝播格差があることを前提とした報道も必要なのだ。加工されていない“歴史的な”映像の一次資料は、その多くが何らかの“力”を持つ側が撮影している。ただそれをつなぎ合わせるだけでは、傍観者的な視点ばかりが蓄積されるのを防げない。撮影される側、そして傍観する第三者がいる背景に迫る視点と構成・演出がない限り、歴史的な事実の意味を本当に解き明かすことはできない。
NHKの『映像の世紀』は1995年に最初のシリーズが放送された。その冒頭に「20世紀は動く映像として記録された最初の世紀」というナレーションが入る。また、新シリーズやテーマ構成のプレミアム版には「100年の時を追体験する」というフレーズがあるが、記録された膨大な映像資料から外れる、カメラが撮らなかった、あるいは撮っても多くの人々の目に触れることない数多くの“歴史的事実”を、残された映像の背後に十分想像できるものでなければ、この新しい世紀にふさわしいマスメディアとして生き残ることは難しいだろう。
一昨年、SSFF&ASIAで初めて観た赤十字国際委員会(ICRC)制作の『希望』というショートフィルムは“フィクション”ではあるが、先述の被災者の実態を象徴的に描いた秀作である。観る人に何を伝えるのかという一番肝心な要素がここにはある。