習合から考えるコモンの再生2020年09月22日 14:21

内田樹氏の『日本習合論』を読んだ。“習合”というキーワードで様々な日本文化の特質を並べながら、“少数者”に甘んじている現状から“コモン”の再構築を提言している。
本書で多くの“引用”が示すように、これまでも、現在も、海外はもちろんのこと、島国に育った“まつろわぬ”文化を含め、多様なものを一つに収斂しないで共存させてきた先人の歴史がこの国にはある。だから、個々に示されたものの中に、私のような“浅学”な者でさえ、そこに深い意味を感じ取り、関心を持ち続けてきたものは多い。
大倉山ドキュメンタリー映画祭に推薦・上映した『オオカミの護符』は自然崇拝や講・御師を取材したものだったし、旅の“語り”から知ることになって何度も復活口演を聴き続けた説経祭文のように、山伏や比丘尼が歩き伝えた“道の芸”は明治初期の神仏分離の暴力的な展開でその多くが途絶えた。
“里山”が創り出す豊かな世界は、私が幼い頃の横浜の田舎にもまだ残っていたことを記憶しているし、内山節さんの著作や今森光彦さんの写真を通じて、繰り返しその魅力を感じ取ってきた。
東京自由大学で島薗進先生の神道ゼミを聴講し日本人の多彩な信仰を考え、『語り芸パースペクティブ』や「寺子屋」に通って日本の“声”の多様性に富んだ伝統芸能を知った。
また、留学生・近隣外国人の日本語学習を支援する中で、自らの韓国語学習とも絡めながら、他者との“共生”ということをずっと考え続けている。
こうした経験は単に“習合”という言葉だけでは簡単に集約できないが、その一つのキーワードの先にある具体的な人と人の結びつきにこそ、著者の目指すところがあるのだろうことは想像できる。
あとがきに「話を簡単にするのを止めましょう」とあるように、読んで納得するだけでは何の意味もない。こんな本があの頃には出ていたんだと、後の世代から一笑に付されるような世の中の到来を待ち望みながらも、探し続けてきたものを次代へ渡す時間がもうあまり多くないことを感じている。

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