大義名分の暴挙2019年10月19日 18:32

「処罰されない」という保証のもと、日本人が集団で攻撃性を発現した事例は過去にもある。直近ではヘイトデモがその代表的な例だが、遡れば戦時中の沖縄やアジア各国で展開された“日本軍(皇軍)”兵士の残虐行為などもその一例だ。ある種の強権で独裁的な政治が行われているとき、為政者の意思を忖度し、それに先んじて、あるいはその思惑以上に過激な行動を取ることが歴史上に散見される。
 最近、その一つ、いわゆる「廃仏毀釈」について簡潔にまとめられた『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(文春新書)を読んだ。
 日本の宗教は、7世紀以降、神道と仏教が混淆した形態を長くとってきた。外来の仏教に皇族でもある聖徳太子が帰依したことも大きい。本地垂迹で“権現”思想が行き渡り、神宮寺や別当寺も多く建った。幕末までは天皇も皇室の菩提寺に葬られている。
 ところが、大政奉還後の慶応四年(明治元年)、新政府は「神仏分離令」と総称する太政官布告を矢継ぎ早に出した。それは当初「神仏判然令」とも呼ばれたように神と仏を明確に区別するという性格のものだったはずなのに、受けた側は、いつしか“分離”を超えて拡大解釈した“廃仏”に向かった。比叡山の麓、日吉大社での暴動に始まった“廃仏毀釈”の動きは全国に知れ渡り拡がる。“国学”の水戸、郷中教育の薩摩、その薩摩に忖度した日向(宮崎)、戊辰戦争で新政府側への恭順が遅れた松本、閉鎖社会の隠岐と佐渡、そして御師がほぼ廃絶した伊勢。もちろん東京や奈良・京都などにもその跡が数多く残っている。
 これらの要因は一様ではないが、富国強兵の国策に沿った廃寺施設の再利用(金属供出、学校建設など)や、僧侶の堕落そのものを除いた理由として、権力者への忖度と「熱しやすく冷めやすい日本人の民族性」が挙げられている。事実、明治九年頃には“廃仏毀釈”はほとんど終息したそうだ。
 「大義名分」に踊らされたと嘯(うそぶ)いて、繰り返し非道な行いをする人々はいつの時代にもいる。その芽を摘むためには、たとえば、「誤解を生んだ」というような虚言を吐いて平然としている人間を権力に置かないことである。そうした人間が上にいる限り、普通のおじさんが、いつ「非道な刑吏」になってもおかしくないだろう。

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