修羅と春2019年06月24日 14:03

昨日の午前中、久しぶりに元留学生と大倉山記念館で過ごした。定員12人の集会室を二人だけで使う贅沢な時間だ。お互いの近況報告にとどまらず、政治・社会的な話題を含めた実のある深い対話を外国人と重ねることができるのは、私にとって何より得がたいものである。彼の母国について書かれた稀少な日本語の本を借りて読んだ感想を述べながら、「ビオレンシア」と呼ばれる彼の国の政治的暴動が、独裁的な指導者に導かれたというより、社会や宗教の矛盾を背景にした民衆の怒りに多くを発していることに触れ、自らの置かれた状況をよしとしない伝統的な生き方がときに苛烈に現れたものではないのかと考えた。もちろん、それは昨今の香港の人々の行動に“つながる”思考と精神的に重なり合う。
 さて、3月に西荻窪忘日舎で始まった野生会議のゼミナールでも“つながる”がテーマになっている。“野”すなわち官製のものではない“生き様(よう)”や“行き方”があるのではないかとして、同時多発的に生み出される“声”の一つが、先月から開かれている「山伏目線で語る宮沢賢治」である。前回は山尾三省に導かれながら野の道をゆく「マグノリアの木」だったが、今回は賢治の書簡集『あたまの底のさびしい歌』から親友保坂嘉内(ほさかかない)に宛てた一通を脚色した“修羅成仏経”と、童話『虔十(けんじゅう)公園林』。
 それぞれが、宮沢賢治の生涯を貫く“修羅”と“春”を象徴するような作品の組合せで、いわゆる宮沢賢治像を解体してゆくような「語り」である。しかも、その方向性は違っても、同じように社会の居場所に安住できず、システムや組織の歯車にもなりきれない、寂しい個人である賢治の身体から発せられた過剰なことばたちなのだ。その痛みが伝わってくるような貴重な時間だった。
 青い橄欖岩(かんらんがん)の碑が立てられ、そこに名を残した虔十の「公園林」は、実は“野”のままなのではないか。子どもたちが自然に吸い寄せられてしまうような怪しい趣きをいつまでも残した「公園林」だったのではないか。それが解っていたからこそ、虔十は身体を張って切ることに抗った。そんな気がしてならない。あらためて賢治の他の作品も読んでみたいと思う。