主体的なことば2019年06月04日 13:00

一昨日、久しぶりに川崎へ出た。ほぼ1年ぶりだろうか。随分前に移築されていたチネチッタを初めて訪ね、そこで韓国映画『タクシー運転手』を観て以来のことだ。以前のチネチッタには良く通った。『もののけ姫』をシネグランデで観た時のことを今でも覚えている。しかし、映画鑑賞以外の理由で川崎へ行くことはほとんど無い。そのせいで「銀柳街」というアーケード商店街の“銀”の字を、長い間「銀幕」の“銀”だと思っていた。
 その川崎駅前の繁華街から少し離れたところに関東屈指のコリアタウンがある。地名で言うと桜本・浜町のあたり。植民地時代の朝鮮半島から移り住んだ人々と、その集住地を頼りにして集まった多くの人たちによって形作られてきた街である。ここに、民族差別をなくすための地域活動の成果として「ふれあい館」という相互理解のための施設ができたのはもう30年近く前のことだが、当初から行われてきた活動の一つに「識字学級」がある。幼くして文字を学ぶ機会が無かった一世のハルモニ(おばあさん)たちに、生活で必要な識字を広げようと始めたものだったが、その対象は在日外国人全体に拡がり、同時に彼女らの想いを綴る言葉を生み出すことにもなった。
 その記録がクラウドファンディングを経て、『わたしもじだいのいちぶです』というハルモニの言葉から採った書名で公刊され、出版記念のイベントが開かれた。会場は川崎駅前のミューザ川崎内にある展示室と交流室。彼女らの写真と共に絵・作文・カルタなどの創作物、識字学級の活動の軌跡などが展示されていた。刊行された本の中にも作文の原稿写真はあるが、実物を見ると一文字ずつの筆圧がより強く感じられた。ひらがな・カタカナに混じって少しの漢字がある。自身に関係のある名前や地名を除くと、“木、母、生、私、心”など記憶を辿るために必要な文字が多い。学習漢字のように配当されたものではなく必要に応じて選ばれたものだから、主体的な学びにつながる可能性を感じる。
 同じ日の夕方、館内で出版記念の座談会が開かれた。本の編者二人に加え小説家の木村友祐氏と姜信子さんが登壇し、それぞれ数篇を選んで朗読してから感想が語られた。なかでは「歌が聞こえる…実用の言葉から」という言葉が印象深かった。生きるために“境”を越えざるを得なかった暮らしで埋没した女性たちの見えない歴史の片鱗が浮かび上がっているように感じた。自らを指導者ではなく“共同学習者”と呼ぶ支援者たちの関わりが、識字学級の様々な展開にも繋がっていて、地域コミュニティの在り方として一つの手本にもなるような取り組みに、日本語ボランティアとして大変興味が湧いた。

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