○“んとこ”の意味2019年05月16日 12:43

渋谷の桜丘にある試写室で、伊勢真一監督の『えんとこの歌』を観た。今年の大倉山ドキュメンタリー映画祭で公開された最新作だが、映画祭当日は裏方だったので今回が初見である。ただし、一昨年同じ試写室で観た『やさしくなあに』の場合と違い、旧作『えんとこ』やETV特集で放映された短いバージョンは既に観ている。つまり、取り上げられている内容そのものについて、かなりの程度は知った上で観たことになる。もちろん、新しいシーンや全体構成など映画として生まれ変わったところも多い。同時に、それらが一つの区切りを付けるようにまとめられたという印象も受けた。
 副題に“ねたきり歌人”とあるように、映画は、脳性麻痺により介助者の存在無しに生き続けることが難しい遠藤滋さんの生活を描いたものである。「えんとこ」は遠藤さんがいるところ。つまり「“誰々”んとこ」という私の世代の子ども時代にはごく普通に使われた略語である。あるいは“縁あるところ”というふうに言えるだろうか。遠藤さんと数多くの介助者の間の濃密なコミュニケーションを表すものでもある。
 ベッドに横たわる生活が34年間、既に2000人近くの介護者が入れ替わり立ち替わり遠藤さんの生活に関わってきた。食事から排便まで、それまで縁もゆかりもなかった他者の存在を必須とする暮らしは、遠藤さんにとって自分自身をさらけ出すものだ。そこには、肉体的な苦痛もあれば、時には膨らんだ恋心もあり、それが、いつのまにか言葉になった。50代後半から始まった歌作りは、口述を介助者が聞き取りパソコンに打ち込み、それを確認することで行う。そこには、一昨年に相模原で起きた大量殺人事件などメディアを通じて知った世の中に対する思いも綴られるが、すべては日々の生活と不可分なものである。
 そうした生きるための静かな“闘い”のような日々に関わることで、介助を行ってきた若者たちは、初めて自らを見つめ、自らの存在を意識する場(んとこ)に出会う。最近とある本を読んで知った言葉に「自立とは依存先を増やすこと」というものがあるが、“依存のスペシャリスト”たる遠藤さんの暮らしの中に、何かしら自ら立つ“熱量”を感じるのかもしれない。映画の中に繰り返し出てきた、渚から観る蠍(さそり)座の赤い1等星アンタレスがそれを象徴しているように思えた。
 一般公開は7月6日〜26日。新宿K’sシネマにて

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