街の本屋の取り組み2018年06月11日 22:56


 古くはプラネタリウムを観るために乗った。その後沿線の高校に通い、就職もその先の渋谷だったので、永年乗り続けている東横線ではあるが、あまり乗り降りしたことのない駅もある。その一つが妙蓮寺だ。駅名になっている日蓮宗池上本門寺の末寺には足を踏み入れた記憶がない。ただ、駅舎から出ていきなり目の前に山門が見えるのには驚く。寺のHPにある由来によれば、東急の前身東京横浜電鉄の鉄道敷設にあたり境内の一部を無償提供したとのことだから宜なるかなである。
 その妙蓮寺駅の近くに古くから開業している石堂書店という本屋がある。以前から時々訪ねる菊名のポラーノ書林がFacebookで紹介しているのを見て初めて知った。その本屋の主人と地元で古民家カフェを経営していたHugという会社の代表が共同で企画したイベント「本屋BAR」に顔を出した。
 地元の蕎麦屋の仕出し料理を肴に「街の本屋と本について、ゆるーく語ろう」というのが主旨だったが、言葉通りに気の置けない“ゆるい”集まりだった。古民家の襖を外した広い和室に置かれた長い食卓を総勢20人ぐらいで囲んだ。石堂書店の主人石堂さんが、作ってきた手作り(としか言いようのない素朴な)プレゼンスライドで書店の沿革や現状を話した後、近い席に座った同士が街の本屋のあれこれについて歓談した。
 一段落したところで、参加者それぞれが「今まで一番印象に残った本」を発表することになった。量はともかくジャンルや種類を問わない読書経験なら豊富にあるわけで、おそらく「一番好きな本」を問われたら答えられなかっただろう。しかし、“一番印象に残った”ものならば即座に言える。私の場合、それは野間宏が書いた『狭山事件』(岩波新書:上下巻)だからだ。20代の頃に読んで強烈な読書体験になった。なぜならば、読後一睡もできずに夜を明かしたからである。感想も一言に尽きる。恐かったのだ。この時の状況は覚えていないが、あの恐怖感だけは今でも残っている。それは、“公権力”というものは無実の人間を罪に陥れるために何でもするということが良くわかったからだ。
 全体小説と呼ばれる大長編が多い戦後文学者が、あの悪文の象徴とも言える裁判関連の文書を一つ一つ読み解きながら冤罪を立証した仕事の記録である。彼の作品を他には読んだこともない私がなぜそれを手に取ったのかは不思議だが、何故か惹きつけられるように一気に読み切った。そして、“本”には底知れない力があることを知った初めての経験だった。

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