街に現れる祭文語り2018年06月04日 21:37

 このところ事情があって休会となっている韓国勉強会は中野にある古民家カフェで開催されていた。そこはまだ5年ほどしか経っていない新しい空間だが、沖縄三線のライブ演奏があったりして中央線文化を色濃く残している。私も若い頃に4年間だけ中野区民だったことがあるが、西武新宿線に近い新井や若宮に住んでいたため、中野や高円寺まで出ることは少なく、当時はサブカル的な“匂い”のする場所へ嵌まらずに都内の名画座通いに明け暮れていた。
 そんなこともあって、今でも少し遠く感じることがある。渋谷や新宿で乗り換える時の雑踏が余計にそう感じさせるのかもしれない。その中央線文化の一角、西荻窪に出かけてきた。「忘日舎」という本屋へである。本屋というより「のようなもの」と形容した方が合っているような風情だ。そこで小さな出版記念会が開かれた。韓国語を勉強し始めた頃から読み直し、読み続けている作家姜信子さんの新刊『現代説経集』の刊行に合わせて企画された“街の本屋”のイベントである。
 「説経」そのものは語り継がれた物語ではあっても、時代によって変遷し、時には換骨奪胎されたものにもなる。それを祭文として蘇らせようとする試みと並行しながら、語られること少なくなった現代に詠み直しをしてみようと果敢に挑んでいるのが姜さんのこのところの仕事だと思う。嘘くさい言葉たちがはびこる世の中に、あえて胡散臭い“カタリ”を対峙させてみたらどうなるのか。回を重ねて聴き続けるうちに何だかそんな問いを投げかけられた気持ちにもなって、口演後に著書へのサインを貰いながら「“ポストトゥルース”が賦に落ちた」などと訳のわからない感想を述べていた。ただ、署名にそえられた一言には「語れば ほら 世界が生まれかわる」とあって、まんざらでもないかと思ったりしている。
 演目は、石牟礼道子の中編「水はみどろの宮」の祭文語り。そして新刊から“こよなく愛する「説経愛護の若」異聞”の章。いずれも、あるようでなく、ないようである物語。現代の暮らしの中には現れない異界を語るものである。その“あわい”を越えるためにこそ芸能はあると、昨年来考えている。だからこそ、硝子戸一枚で仕切られた街中の小空間に静寂が訪れ視界が広がるのだろう。

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