現場を歩くメディア2018年03月04日 10:18

大手の新聞や主要なニュース番組が“フェイク”あるいは“ポスト・トゥルース”に近い状態へと陥る時代にあって、信頼の置ける情報に接すること自体がなかなか難しくなっている。基本的にはメディアの情報を鵜呑みにすることなく、自分自身のフィルターを通して見聞きするのが習い性になっている。ただ、その良否の判断が付きにくい問題については、それなりに選ぶ。報道番組に関してはデイリーニュースを追うより毎週土曜夕方のTBS「報道特集」を録画している。何よりもそこには現場を歩くという基本があるからだ。

メディアへの不信2018年03月12日 10:19

 また人が亡くなった。かれこれ3年前になるが、ISISに邦人がさらわれた時、「政権批判はテロリストを利する」という翼賛体制を支える気分が社会を覆ったことがある。その際、こうした体制の構築に抗するという声明に“ひとりの表現者”として名を連ねた。それは、そうした体制そのものが、個人やその親族を孤立させる巨大な力として働くことに脅威を感じたからだ。その体制の結果として、虐殺にせよ自殺にせよ、いずれも人が亡くなることにつながった。二つの事件は深いところで繋がっている。
 このような理路がわからないメディアは“ニュース”だの“報道”だのという看板をもう外した方が良い。テレビのワイドショーに出てくる芸のない芸人や肩書きばかりの有識者など、有象無象が発する無責任な言説と何の変わりもありやしない。今、穴の開き始めた船が沈みそうになり、われ先にと言い逃げするような醜態は、死者を出すまでに至った社会の歪みに加担したことへ何らの責任も感じていない証左だろう。
 力のあるものへ“ひょいひょい”と移り変わっていく世論を信じられなくなったのは、嘘が20倍速く拡散するツイッターの現状を調査したMITの発表を待たずとも十分にわかっていた。しかし、問題は政府が国民を欺いたことだけではない。情報の受け手への信頼を怠った多くのメディアにこそ本質的な問題が隠れている。
 なぜならば、そこに触れない限り、仮に安倍政権が総辞職しようが、同じようなことは繰り返し起きるだろう。騙される方が悪いとうそぶく詐欺師とどこが違うのか。

問いの発見に繋がる“学び”2018年03月16日 10:21

 日本版MOOCの一つ「gacco」で、以前「インタラクティブティーチング」なるものを受講したことがある。「アクティブラーニング」の実施手法を学ぶと共に、“アクティブ”つまりどのように学習者が能動的に参加する授業を設計するかがテーマだった。その感想を一度この場にも書いたことがある。さまざまな“学び”や“気づき”の可能性が縷々語られることそのものは良いのだが、そこで示される教え方そのものについて顧みられることはなかった。したがってビデオに参加した教師志望の大学院生の中にも“問い”は生まれていない。もちろん、無料のオンライン講座でそこまで望むのは酷だろうし、有料の対面授業もたしか企画されていたような気がするのだが、“インタラクティブ”という言葉を使うのであれば、予定調和から外れたところに生まれる面白さこそ“学び”を創発する瞬間だと深く感じさせてくれるような話を聞きたかった。

手探りの日本語学習支援2018年03月18日 10:25

 地元の国際交流ラウンジの日本語教室でボランティアを始めて1年が経った。その間、オランダ・中国・フィリピン・アイルランド・ネパール・バングラデシュ…と、様々な国からそれぞれの事情で日本へやって来た外国人の日本語学習を手伝った。
 彼らが手探りで学習を進めているように、私も毎回手探りしながら応じていた。その世界で最も流通している文法積み上げ式の教科書で始めたものの、何となく違和感が生まれ、学習者が変わったところで地域の教室が作ったテキストに変えた。習熟度の違う複数の学習者に対し、ひとりひとりへのケアということではなくて、互いに刺激しあう関係をどうやったら作れるのか。その実、自分が一番苦手な対話を導き出すための工夫を、この頃ようやく少しだけ考えられるようになってきた。
 先日、学期終了時のミニパーティーが開かれた。4月から3ヶ月間母国へ帰る学習者が私と並んだ写真をスマホで撮りたいと言ってきた。こんな小父さんが日本語の学習支援をしていると異国で紹介されるのかどうかはわからないが、7月に日本へ帰ったらまた来るという言葉が確かなものに聞こえることそのものが何よりうれしい。

可能と受身2018年03月20日 10:28

 日本語文法の動詞の活用で外国人に難しい表現の一つに、“可能”と“受身”を表す助動詞の「れる・られる」がある。“ら抜き言葉”が多く用いられることも理解の混乱に拍車を掛けているかもしれない。
 文章であれば、混乱を避ける為に、「することができる」を使うとか、主客を入れ替えて表すなど、方法はいろいろとあるだろう。しかし、音で聞いてわかるような口語の表現にはなじまない。やはり、ひとこと、つまりワンフレーズでわかりやすい言葉が好まれる。いや、わかったつもりになれる言葉か。
 「決められない政治」という言葉が流行ったのはいつ頃だったろうか。私の記憶では、たしか衆参両議院での与野党勢力が逆転し、“ねじれ国会”などという政局の表層だけをメディアが盛んに語り出した時期ではなかったかと思う。もちろん、このネガティブ・イメージは、討議という民主主義の根本を成す原理をおろそかにして、いかに速く事を進めるかに加担したものである。それが誰のための施策であろうと…。
 だから逆に、“決められる”という可能を表す言葉を良しとするプラス・イメージが付くことで、その後の政局は暗黙の支持による強者を生み出すことにつながった。民主党野田政権の突然の解散劇もその延長線上にある。
 だが、それで一体なにが“決められた”のだろうか。この5年に及び安倍政権が主導してきた様々な政策は、ほとんどが民主主義の根本を侵すためのものだった。それは、彼らにとって“可能のられる”だったかもしれないが、その政策で左右される市民にとっては“受身のられる”だ。
 不当な使途に税金を“使われた”ことで、これほど大騒ぎになるのであれば、この5年に“決められた”、いや“決められてしまった”もっと大きな問題も、あらためて考えてみる必要があるだろう。これから、起きるかもしれない安倍政権の総辞職はその出発点に過ぎない。