“語り”の奥にあるもの?2018年02月20日 22:38

 昨年から続いていた亀戸“詣で”が終わった。天神様のお膝元でもあるが、駅前の文化センターの和室が、その時だけ畳敷きの“神楽殿”になる。「語り芸パースペクティブ」と題し、浪曲師玉川奈々福さんが個人で企画した“芸能を辿り探る旅”のようなイベントだ。
 元々は、外苑前で開かれた「旅する語り」という姜信子さん主宰のイベントがきっかけだった。そこで知った浪曲師が荏原中延にある「隣町珈琲」で“語る”と知ったのが一年後、目の前で繰り広げられるナマの口演の面白さに引き込まれ、いつのまにか浪曲を少しずつ聴くようになった。そのつながりで、この企画も知った。
 外国人の日本語学習支援を初めてからというもの、自分自身の口から出る言葉にたびたび意識が向く。その声音や語彙に違和感を感じることがある。表現の上手下手とも違う何か決定的に足りないもの、それが何であるかが良くわからないままに彼らと対している。“語り”に隠された何かが、そうした問いへのヒントを与えてくれるような気がした。だから、どうしても聴きたいと思い、予約開始直後に申込メールを送り、翌朝郵便局が開くのを待った。
 番外編のパンソリを加えた全12回に参加して、はっきりしたことが一つだけある。当たり前と言えば当たり前のことかもしれないが、今回聴いた「語り芸」の演者達はみな決して手を抜かなかった。いや、手を抜くことを知らない(できない?)ように見えた。だから、定員60名の小さな和室で聴くことが奇跡のような僥倖に思えた。永年続けてきた日々の稽古の先にあるものが、まっすぐにこちらへ届いてくるようだった。それが一つの答えなのかもしれない。

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