変わらない国民とメディア2018年02月12日 22:32

 3週間ぐらい前だろうか。外遊から帰国し、翌週からの通常国会を迎える前の週末に、官邸や政府の実務クラストップを呼んだその日の午後、「首相の一日」を東京新聞はこう記している。
 【午後】3時4分、官邸。51分、新聞・通信各社の論説委員らと懇談。4時26分、在京民放各社の解説委員らと懇談。51分、内閣記者会加盟報道各社のキャップと懇談。
 昨年と比べ、東京新聞でさえ一面を中心にした政治面の「見出し」表現が微妙に変わってきたことを薄々感じることはあるが、数少ない情報源として見ることが多い複数のツイッターでも、近頃のワイドショーの翼賛化が著しいことは聞き知っていた。しかし、昨日放送されたBS-TBSの「外国人記者は見た+」が“やはりすごい安倍政権”と題した“提灯持ち”のような特集を組んでいたことに少し驚いている。北朝鮮と対話を進めるための一時的な融和を政策の選択肢とする韓国へ、あろうことか内政干渉しようとする首相に寄り添って緊迫感を煽るNHKニュースはさて置くとして、比較的中立に振る舞っていたような番組にさえも何らかの“措置”が図られているとみていいのだろう。
 ここにきて、私の年来の疑問は確信に変わりつつある。日本人は1945年8月15日を境にして、国民全体としては何ら変わってはいないのではないか。それが怖ろしい。

落語は語り芸か?2018年02月12日 22:34

 昨年4月から毎月通ってきた亀戸文化センターの和室。限定60席の「語り芸パースペクティブ」プラチナチケットも次回で無効になる。最終回の鼎談を残し“語り芸”の公演は全て終わったが、先々週に行われたラス前(死後か?)の企画は江戸落語だった。これにはわけがある。
 毎回「ごあいさつ」と題し、奈々福さんがテーマについて語る口上が配られる。その口上書きに「今日が、今回の企画の、キモ、です」と書かれていた。これまでにいくつもの“語り芸”を聴いてきたわけだが、江戸落語は“語り”ではないという。では、何なのかというのが“キモ”になる。
 書籍編集者だったらしく奈々福さんは開口一番こんなことを言った。落語家は噺家とも云う。口に新しいと書いて“噺”と書く。また、関連本の紹介では、“言う”と“話す”と“語る”、この三つそれぞれに“合う”を付けてみるとニュアンスの違いがわかると…。
 解説の和田尚久さん曰く、落語は“語り芸”の後に生まれた近代の産物で、今につながる江戸落語を決定づけた時代と人物がある。一つは1884年に出た三遊亭圓朝「牡丹灯籠」の速記本。次は1905年に発足した第一次落語研究会(今のホール落語会の発祥)、そして帝大の同級生として共に寄席に通った子規と漱石。漱石は時代が求める新しい“散文”のヒントを“神”なき芸能である落語の価値観に見つけた。つまり運命から見放された寄る辺ない人々を映す新しい言葉“散文”を落語から生み出したのではないか。
 “語り”が、既に過ぎ去った地点・時点から時代や人物を眺望・回顧する視座を持つのに対し、落語の落語たる所以である“落とし話”、つまりオチがある滑稽話は、歴史と無関係に“ある時間”を巡回するもので、たとえば漫画の「サザエさん」や「ドラえもん」のように時代は移っても登場人物の姿格好は基本的に変わらない。“世話”であり“無名”なのだ。映画の「ドラえもん」に物語があり、時にヒーローともなるのは、2時間近い“世話”が作れないからにすぎない。一方で、落語に出てくる“語り”は、大家や先生の真似をして物語を語り損ねた“失敗の物語”ではないのか。その構造こそ新しい面白さだった。
 上方落語が下座囃子を使う“語り”の色濃い芸能であるのに対し、江戸落語も昔は三味線を使っていたが、ある時期から意識的な“素話(すばなし)”への移行があった。それが“散文”を生み出し、現代(いま)を絵解きする相対化の芸能になったという。その為にも観客が再体験する現場を作る方法がとても重要だと演者の萬橘師は鼎談で語っていた。また、江戸落語の与太郎は、一般的な見方に対するアンチテーゼを一言で表現することができる存在でもあるという。
 私もその場で感じたことが一つある。二席あった噺の最中はもちろんのこと、その後の鼎談でも瞬間的な笑いが繰り返し生まれていた。もしかしたら、落語は離散・微分的な“噺”の集合であって、語り芸は連続・積分的な“物語”なのではないだろうか。そんな感想を持った。