“百姓”の活躍?2018年02月02日 22:30

 久しぶりに韓国ドラマの史劇を観ている。「六龍が飛ぶ」。高麗王朝末期に易姓革命を起こしたチョン・ドジョンやイ・ソンゲを含めた、実在と架空の人物による歴史物語だ。「根の深い木」の脚本・演出コンビらしく様々な伏線をしかけてドラマを展開している。
 漢字に直せば“百姓”になる백성(ペクソン)、現代では“民衆”に近いこの言葉がドラマには繰り返し出てくる。“過去事”に遡って主人公の心情を民衆に寄り添わせる史劇の手法は韓国ドラマの特徴の一つではあるが、実際にどれだけそうした感情がその時代に共有されていたかは心許ない。しかし、大統領弾劾にまで繋がる民主化運動の裾野には、こうした史劇の主人公に理想を語らせたことで、単なるカタルシスではない意識の変化を視聴者に及ぼした可能性はあるだろう。事実、一方の主人公でもある“百姓”たちの活躍がドラマを動かす重要な役割を担っている。
 その代表とも言える若き女人プニを、土地を奪われた人々は“プニ大将”と呼び、その指示のもと様々な諜報活動に参加する。通信メディアがなかった時代にどのような情報連絡が可能であったかは定かでないが、少なくともそれが人と人の間の信頼関係の元に成り立ったと考えるのが、歴史考証上で最低限言えることではないだろうか。それは、虚言や妄言を繰り返す上層階級の貴族や士太夫(サデブ)との対比を描くことで、より強調されているように思う。
 しかし、たとえばスイスのような直接民主主義でさえあっても、現代においては放送を含む情報通信メディアが世論に与える影響はとてつもなく大きい。人対人のコミュニケーション以上に人々はメディアからの情報に頼り、それを自らの行動の選択条件として有効視する。情報が溢れかえる世界でも、より多くの関心が集まるものへと集中する指向は、高麗時代の民衆と比べ変わるものでもないが、何の信頼関係もなく“まがい”を越えたヘイトスピーチが蔓延するありさまは、匿名の発言を広く伝搬するメディアあってこそだろう。
 テレビニュースが自局の編集判断の元にネットの匿名投稿を利用するようになったとき、「パンドラの箱」を開けたことに誰も気が付かなかったように、責任の所在を問われることのない相対主義がメディア全体を密かに蝕んでいった。“忖度”ももちろんあっただろう。しかし、多くのメディアにそうした自覚は感じられない。だからこそ、情報への判断は要求されるものの、そのまま流す国会中継が今一番確かなものになっている。
 その昔、私が“原子力”に関心を持ち始めたきっかけは「ヒロシマ 語り部の夏」というテレビ番組を観たことだった。その年の冬、初めて広島を訪ね、その登場人物に会った。後に平和祈念資料館の館長になる高橋昭博さんは、修学旅行で広島を訪ねる中学・高校の事前学習のために、ひとりで“語り部”として各地を訪ねる人だった。その行動と交流の記録は、それを観た私にこの人に会ってみたいと思わせるだけの信頼が感じられた。
 今、新聞に載る視聴率週間ベスト10に毎回のように名を連ねる某局のニュース番組に、私は信を置くことができない。それは、人と人との繋がりをもとに伝えようとする態度がそこにないからだ。そうした態度はいつのまにか蔓延し、いずれはヘイトスピーチにつながるような不信と誤解を生むことになるのだろう。

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