唖蝉坊のことば2017年08月02日 18:45

 先月末になるが、久しぶりに両国駅で降りた。江戸東京博物館で行われた朝鮮通信使のイベントを観て以来だから、およそ3年ぶりだったが、このところ二駅先の亀戸に頻繁に通っているせいか、あまり違和感がない。今回は国技館とは反対の南側へ少し歩いたところにある小劇場に“演歌”を聴きに行った。
 “演歌”と言っても最近のものではない。明治大正時代の“演歌”、つまり“演説”が歌になった頃の“演歌”だ。大河ドラマにも取り上げられた新派演劇の創始者川上音二郎は今でも良く知られているが、同時代の演歌師添田唖蝉坊(あぜんぼう)を知る人は意外に少ないかも知れない。俳優の小沢昭一さんが亡くなる少し前に、唖蝉坊の長男知道氏が書いた「流行り唄五十年」を復刊した朝日新書に解説を寄せている。買って本棚に飾ったままだったものをあわてて読みながら会場のシアターXに向かった。
 実験的なパフォーマンスを含む自主企画で知られる同劇場へ行くのは初めてだが(記憶が怪しい ^^; )、あの「梁塵秘抄」の故桃山晴衣さんが活躍した場でもあったそうで、後で知ったことだが彼女は添田知道氏の最後の弟子とも呼ばれていた。そして、その演歌師の跡を継ぐのが土取利行氏である。「邦楽番外地」と名付けられた添田演歌の公演はもう5回目になるが、今回は「明治・大正の女性を唄う」という副題が付けられ、ファドの歌い手松田美緒さんをゲストに迎えている。
 明治後期、藩閥政治に対抗した自由民権運動から生まれた“演歌”は、当初は弾圧を逃れるための政治運動の一形態だった。壮士でもある演歌師の多くは選挙運動にも身を投じた。彼らの武骨な歌が次第に飽きられていった頃、わかりやすい社会風刺の表現に多様なメッセージを込めた添田唖蝉坊の“演歌”が現れて人々に歓迎されるようになった。その唖蝉坊と長男知道(筆名さつき)氏の作った多くの“演歌”は、武張らず剽げた味わいと恋歌の艶があり、一部2銭の歌本が飛ぶように売れたという。
 演者の土取利行氏は、ピーター・ブルック劇団の音楽監督として多数の海外公演に同行していることもあって各国の楽器に精通している。ロシアの「ドムラ」やイランの「サントゥール」など様々な民族楽器による伴奏で唄う“演歌”は私が予想していたものと少し違っていたが、軽妙洒脱の雰囲気そのものはとても良く似合っていた。休憩を挟んで15,6曲は聴いただろうか。前半途中から参加した松田美緒さんの歌もまた見事なもので、表現力豊かな節回しは“新しい演歌”として通用するような出来栄えだった。この時代の“演歌”に魅力があるとすれば、それは批判精神ということだけではなく、社会と密接に結びつくための伝わる“言葉”にこそあるのではないかと考えさせられた。
 社会閉塞が進む時代には、鎮魂の歌ではなく“新しい演歌”こそが相応しい。テレビや広告などマスメディアから風刺の影さえもが失われたように見える時、一部200円の歌本が巷に復活したら面白いだろうに…。今ならさしづめ“森加計節”か“五輪節”といったところか。自己肯定より先に社会を見る目をもう一度取り戻さないと少子高齢化社会の「共に生きる」はたぶん空語になる。