継がれた言葉の奥2017年07月12日 18:10

 “言葉”が本来持っている力について、ここ最近日常的に考えることが多くなった。一つは、港北国際交流ラウンジの日本語ボランティアを始めて約半年、初めて「かな」から始める学習者を担当することになったからだ。生まれも育ちも違う三人の外国人を相手に、ホワイトボードの前で何を話すのか。「かな」の音や形、それが持つ意味、辿ってきた歴史。“あ”と“い”。日本語は「あい」から始まる。だから、心を通わせるための道具にしたい。決して、押しつけ、覚えさせる道具にはしたくない。膨大なメディアが垂れ流す“言葉”とは違う、手触りがあるものとして前を向いて応えたい。
 その為に、もう一つ。語り芸が持つ力を学びたい。この数ヶ月、浪曲師玉川奈々福さんが企画した「語り芸パースペクティブ」と浪曲を中心に、説教・法話やゴゼ唄、文弥節など日本各地に伝わる語り芸を聴いている。身体から発する声。唄や物語で語られる“言葉”が、本来持っている力を見せてくれる瞬間に幾度も立ち会った。つい先日も、そんな語り芸を聴いてきた。
 「かたや三味線、かたや太鼓。音を相手に物語を語る姉妹のような二つの芸」である浪曲とパンソリ。その口演が日本橋人形町で開かれた。「語り芸パースペクティブ」番外編と銘打たれてはいるが、演者の構成は例の「かもめ組」である。ただ、「この国の物語曼荼羅」には含まれないパンソリを、番外編とはいえ、どうしても入れておきたかった奈々福さんの思いは良くわかる。実際、この口演で初めてパンソリを聴く人は多かった。姜信子さんの解説にもそれは引き継がれていて、植民地化の朝鮮半島でどのように浪曲が歌われたか、その貴重な音源を聴く機会にも恵まれた。
 さて、浪曲の演題は「陸奥間違い」。曲師は沢村豊子師匠。田舎から出てきたばかりの老僕が、年越しの銭を無心する書状を旗本の主人に託されるが、訪ねる先を間違えて、あわや一大事となるところ、大名の気風や老中の差配で無事一件落着となるという話。故玉川福太郎師匠から初めて教わった演目だそうで、入門して22年の節目を飾る充実した一席だった。
 パンソリは唄者が安聖民(アン・ソンミン)さん。昨年パンソリの正式な履修者として認められる栄誉を受けた人である。鼓手は李昌燮(イ・チャンソプ)さん。演題は短歌「江上風月」と有名な「水宮歌」の一節。竜王の病を治すため、その薬を探しに地上へ遣わされたスッポンが見たのは「我こそは…、我こそは…」と上座に坐ろうとする鳥や動物たちの自慢話。事大思想をからかうように中国史の偉人の名前が次々に出てくるところは、両班という特権階級への暗喩にも聞こえる。
 チラシの文章にある通り「地べたに立って低きところから声をあげ物語を歌い語」ってきた二つの芸能は、語り手と奏者の濃密なコミュニケーションで成り立っている。会場で流れたイ・グォンテク監督のパンソリ映画『西便制』のシーンにもあったが、古くは世襲で伝わったこともあるのだろう。身体から絞り出す声や、どんな即興にも対応できる柔軟性は、道々に語り継がれてきたその歴史を強く感じさせる。
 しかし、似ているようで違うところもある。社会階層や風景の描き方、対人交渉の台詞など、その国の人々が置かれてきた立場と、そこで思い考える時の指向の違い。併合という歴史の中で、時に入り混じりながらも継がれてきたこの二つの語り芸を一緒に聴いてみることの価値は大変に重い。